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 2004年05月20日
 二十四の瞳
Posted by ag at 00:35/ カテゴリー: MOVIE

先日WOWOWでやっていた映画『二十四の瞳』がDVDレコーダーに溜まっていたので観る。

めちゃくちゃ有名なもんだと、あからさまに「好きだ!」というのが“あまのじゃく”な自分にとってはとてもはばかれる。でも、この木下恵介の映画『二十四の瞳』は、やっぱり何度観てもイイ。壺井栄の原作も有名だし、この映画も有名だから、あらためて「素晴らしい!」と声高に言うのは少し気恥ずかしい気もするんだけど……。いや、そんなことはない。もう時代は流れて、自分にとっての“有名”は、もう過去の遺物に成り果てているのかもしれないから、誰かが改めて評価してあげないと。そうしないと、おそらく今の若い人は、この原作も映画も知らないだろうし、知る機会も大人から与えられないんだろうから。古い日本映画の再評価をせっせとやりましょうか。次回は吉村公三郎の『安城家の舞踏会』を。

それで、この木下恵介の『二十四の瞳』。ラストまで見終わっていつも気になるのが“富士子”のその後。映画の中で特に不憫なのが“富士子”“松江”“コトエ”の3人。奉公に出された“松江”は、映画の最後で高峰秀子演じる大石先生と同窓会で再会することができる。寝たきりの“コトエ”は残念ながら肺病で死んでしまったことがわかる。しかし“富士子”については何も語られないで終わる。没落した庄屋の娘で、まるで夜逃げをするように村を去っていった“富士子”。いったい彼女の半生はどうなったんだろう?

映画のラストで、得に実話の場合には、主人公たちの“その後”がテロップで流れる場合がある。例え実話だとしてもそんなにベラベラ喋らないで、赤毛のアン曰く「想像する余地を残して欲しいわ」と思わなくもない。この『二十四の瞳』では“富士子”のことだけ、木下恵介は想像の余地を残してくれた。おそらく原作通りのセリフを入れるのは、唱歌を多用する映画としてのバランスを欠くと考えたのだろう。

映画の登場人物のその後を想像するのも楽しいものだ。『道』のザンパノは? 『卒業』のダスティン・ホフマンとキャサリン・ロスは? 『カッコーの巣の上で』のチーフは? そして“富士子”のその後は? そんなネタを酒の肴にしながら、ずっと喋っていっれたらなあ。和田誠と山田宏一の「たかが映画じゃないか」のように。

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