
ティム・ロビンスの映画『デッドマン・ウォーキング』は、スーザン・サランドン演じるシスター・ヘレンが、ショーン・ペン演じる死刑囚マシューの精神アドバイザーになり、死刑が執行されるまでの彼を支えていく姿が描かれる。出会った最初の頃は、罪を他人になすりつけ、育った貧しい環境を呪い、被害者の家族への謝罪の言葉もなかったマシューも、あからさまに訓戒を垂れることもなく、穏やかにキリストの教えを説いていくシスター・ヘレンに対して徐々に心を開いていく。彼女の薦めで読んだこともない聖書も読み始める。そして最後に、まさに死刑が執行されるその時に、マシューは被害者の家族に対して謝罪を行う。
この映画は、死刑というものを肯定も否定もしていない。そこには、加害者に対する被害者の家族の憎しみと、人が人を裁いて死に至らしめるという事実が提示され、残忍な加害者は決して悪魔でもモンスターでもなく自分たちと同じ人間なんだ、という部分がシスター・ヘレンによって少しずつ引き出されていく過程が描かれる。その誘導剤としての役割が宗教になる。
この映画を観ていて、果たして自分は「死刑」というものをどう捉えているのだろうと考えさせられる。被害者の家族が加害者に対して早期極刑を望むことも理解できる。人が人を裁いて死に至らしめるのはおかしいということも理解できる。だから、この二つの理解が平行線のまま永遠と続くだけだ。決して交わることはない。もし無理矢理交わらせようとすれば、人間という性をもっと大きな極みから、太極から捉えた考え方が必要になってきてしまう。そうすると自ずと宗教の教えに行き着いたりする。
しかし宗教と言うと、日本人である我々にとってはどうしてもダークなイメージしかない。特に新興宗教に対しては嫌悪感甚だしい。確かに煩悩に支配された宗教も多いので無理もない。自分も宗教に対しては、争い事を起こす災厄としか長いあいだ捉えることができなかった。そんな中で、禅宗などの教えに少しでも触れる機会があると、その教えの壮大さに愕然としたりする。なぜ誰もそれを教えてくれないんだ?
もうすでにほとんどの日本人にとって、宗教の教えは生活に根ざしていない。堕ちた人間の尊厳を回復するのにも宗教は介在しないし、死刑ということを判断する上でも宗教は助けにならない。
大阪教育大付属池田小学校で児童8人を刺殺した宅間守死刑囚は最後まで遺族に対する謝罪の言葉はなかった。最後まで面会に訪れた臨床心理士も、獄中結婚した彼の妻も謝罪の言葉を彼から引き出すことはできなかった。もしそこに、日本人としての文化に根ざした宗教があればどうだったんだろう?