ag can wait
« 華胥の幽夢 十二国記 | メイン | かいじゅうたちのいるところ »
 2010年01月20日
 マラドーナ
Posted by ag at 23:36/ カテゴリー: MOVIE_Database

マラドーナ監督:エミール・クストリッツァ
出演:ディエゴ・マラドーナ
原題:Maradona by Kusturica
制作:スペイン、フランス/2008
URL:http://www.maradonafilm.com/
場所:シアターN渋谷

ある人物のドキュメンタリーを撮る場合、その対象となる人物を崇拝している人が撮るとなると、どうしても人物の捉え方が一意的になってしまって、掘り下げ方が浅くなってしまう。人間はどんな人物にも陰と陽があって、陰が陽を形作る場合もあるし、またその逆もあるはずで、陽だけにスポットライトを当ててもそれは真実ではないし、その逆もまた真だとおもう。なのに、あまりにも対象となる人物に思いを寄せすぎると、どうしても陰の描写が遠慮がちになるし、陽の部分を大げさに誇張しすぎてしまう。

エミール・クストリッツァのマラドーナへの思いはこの映画からヒシヒシと伝わってくる。それは間違いない。だって、あの、1986年のワールドカップ・メキシコ大会の“伝説の5人抜き”のシーンが何度出て来たことか! この“伝説の5人抜き”のビデオで映画全体のリズムを作っていることはわかるけど、それはあまりにもやり過ぎだった。

そしてマラドーナと言えばやはり、華やかなスポットライトの後の薬物依存や不摂生による体重増加の部分がポイントとなることは間違いない。だからもちろん、この映画でもそれは言及される。でも、神が神たる所以は常人と一線を画しているところにある、みたいな感じで描かれているんだよね。あまりにもマラドーナの暗部をさらりと流してしまっている。その暗部があの“伝説の5人抜き”を生んだとも言えるはずなのに。

おそらくエミール・クストリッツァも、マラドーナの人物像をどのようなアプローチから浮かび上がらせるべきか悩んだんだとおもう。ずっと張り付いてマラドーナにカメラを向けていることも不可能だったろうし、あまりにも暗部を強調すればマラドーナからのOKも出なかっただろうし。苦肉の策としてクストリッツァ自身を映画に登場させたんじゃないのかなあ。そして題名も“Maradona by Kusturica”として、マラドーナの人生と自作の映画のシーンを照らし合わせた。でも、それが果たしてうまく行っていたのか? たぶん、うまくは行っていなかった。

ag-n
青空文庫
青空ニュース
カテゴリー
月別アーカイブ