ag can wait
« 2011年03月 | メイン | 2011年05月 »
 2011年04月26日
 ブンミおじさんの森
Posted by ag at 23:54/ カテゴリー: MOVIE_Database

ブンミおじさんの森監督:アピチャートポン・ウィーラセータクン
出演:タナパット・サイサイマー、ジェンチラー・ポンパス、サックダー・ケァウブアディー、ナッタカーン・アパイウォン
原題:ลุงบุญมีระลึกชาติ
制作:タイ、イギリス、ドイツ、フランス、スペイン/2010
URL:http://uncle-boonmee.com/top.php
場所:シネマライズ渋谷

ユダヤ人であるコーエン兄弟が映画の冒頭にユダヤ教の箴言から言葉を持って来たように、アピチャートポン・ウィーラセータクン監督はこの映画の冒頭に仏教的な死生観に基づいているとおもわれる「森や丘や谷を前にすると 動物や他のものだった 私の前世が現れる」の言葉を持って来た。そしてその言葉に連動するかのようにスクリーンに水牛が現れ、その水牛は繋がれていた綱を振りほどき森の中に逃げて行く。森には「森の人」がいて、水牛は再びその「森の人」の囚われの身となる。

映画の冒頭から、タイと云う国に根ざしている宗教、精霊信仰、民俗学、神話のイメージの奔流に飲み込まれてしまう。たぶん、水牛と云う動物には何か神聖な意味があって、森の中を放浪する人にも何か意味があるんだろうとおもう。その水牛はブンミの前世であるかもしれないし、一度は野に放たれた魂が再び何かの器に納まることを意味しているのかもしれない。そんなことが理解出来ればいいのだけれど、なかなかそこまでの知識がないので、ただ単純にそのイメージに身をまかすだけだった。ブンミの妻の幽霊にはキリスト教的な死生観が現れているベルイマンの映画に思いを馳せ、猿の精霊には日本の精霊信仰が色濃く出ている宮崎駿の『もののけ姫』を思い出し、森の洞窟にはデヴィッド・リンチの『ツインピークス』に出て来るフクロウの洞窟を思い浮かべていた。

ラストのエピソード、ブンミの義妹のジェンとその息子のトンが彼ら自身の分身を見ているシーンはうっすらとスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』を思い出していた。ボウマン船長がルイ王朝時代のボウマンを見ているシーンを。これは同じように何かの新しいはじまりを予感させるシーンだったんだろうか。ラストクレジットに流れる音楽が終わった後に、さらにスクロールするエンドロールに被せるように聞こえてくる雑音のような効果音に何か新しい夜明けを感じるべきだったのか。

 2011年04月20日
 ヤンヤン 夏の想い出
Posted by ag at 23:34/ カテゴリー: MOVIE_Database

ヤンヤン 夏の想い出監督:楊徳昌(エドワード・ヤン)
出演:呉念真(ウー・ニエンチェン)、金燕玲(エレイン・ジン)、李凱莉(ケリー・リー)、張洋洋(ジョナサン・チャン)、イッセー尾形
原題:Yi Yi: A One and a Two
制作:台湾、日本/2000
URL:
場所:早稲田松竹

以前に、エドワード・ヤン監督の『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』を新宿TSUTAYAからVHSで借りて見た時、ほとんどのシーンが暗いうえにそれをロング・ショットで撮っているので、テレビのような小さな画面ではそれぞれの登場人物を見分けるのがとても難しかった。それに、エドワード・ヤンが撮るような映画は、ハリウッド映画術を駆使して撮られた映画のように観客のエモーションをコントロールするような映画ではないので、いかにしてその映画の世界の中に、見ている自分の身を置くことが出来るのかが鍵になるので、テレビ観賞のように外的要因がすぐ入り込むような環境で見るものではなかった。絶対に、劇場で観なければならない類いの映画の一つだった。

と言った反省をふまえつつ、エドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』を劇場で観てみた。この映画を楽しめるかどうかは、やはりエドワード・ヤンが描くようなごく普通の家族の日常的風景の中に、それを見ている自分の身を委ねられるかどうかにかかっている。映画の中に自分の身の置き場所を見つけられなければ、見ていて辛い映画になってしまう。自分の場合はなぜか台湾の監督、このエドワード・ヤンとか、ホウ・シャオシェンとか、アメリカで活躍しているアン・リーとかも肌が良く合う。映画の中に流れている台湾独特の時間の流れに波長がとても良く合う。だから、ヤンヤンやティンティンのすぐそばに自分の身を置いて彼らを見守ることが出来るし、父親のYJに自分をオーヴァーラップさせることも出来たりする。映画の中に描かれている日常がまるで自分の本当の日常に同化してしまったかのように、もう何時間でもそこに身を置くことが出来てしまう。これって、後期のベルイマンやイギリスのケン・ローチの映画やフレデリック・ワイズマンのドキュメンタリーにも同じ感覚を得ることが出来るけど、何故か日本の映画にはあまりない。小津安二郎の映画くらい。最近では是枝裕和監督の『誰も知らない』くらいかな。

エドワード・ヤン監督は残念なことに2007年に病気で亡くなってしまった。もう新作に出会えないなら少なくとも『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』も劇場で観たい。あの世界の中に身を置きたいなあ。

 2011年04月14日
 英国王のスピーチ
Posted by ag at 23:54/ カテゴリー: MOVIE_Database

英国王のスピーチ監督:トム・フーパー
出演:コリン・ファース、ヘレナ・ボナム=カーター、ジェフリー・ラッシュ、ガイ・ピアース、マイケル・ガンボン、クレア・ブルーム、ティモシー・スポール、ジェニファー・イーリー、デレク・ジャコビ、アンソニー・アンドリュース、ロジャー・パロット、イヴ・ベスト
原題:The King's Speech
制作:イギリス、オーストラリア/2010
URL:http://kingsspeech.gaga.ne.jp/
場所:新宿武蔵野館

チャールズ・バー著、宮本高晴訳「英国コメディ映画の黄金映画」(清流出版)と云う本を読んだ。戦前から50年代にかけてイギリスで映画制作を行っていたイーリング撮影所のことを書いた本なんだけど、同時にイギリスと云う国とその国民姓のことも論じている部分が面白かった。特に、コレリ・バーネットと云う歴史家の著書から引用して、パブリック・スクールの価値観が国民性の中核に根付いていると語っている部分がとても興味深かった。パブリック・スクールの価値観とは、一方に「廉潔、正統性、ロマンティックな理想主義、強固な公的責任感」があり、他方には「保守主義、正統性への狂信、硬直性、無気力、徹底した現状容認主義」がある、としている。なるほど、過去のイギリス映画を見ても、例えば『小さな恋のメロディ』とか、『炎のランナー』とか、テリー・ギリアムの映画や007の映画でさえも! そこには確かにパブリック・スクールの価値観が息づいているようにも見える。能天気なアメリカ映画とは毛色の違うパブリック・スクールの価値観が映画のベースに見え隠れするような気がする。

『英国王のスピーチ』は今年のアカデミー賞でトム・フーパーが監督賞を受賞した。そのトム・フーパーの誠実なスピーチを見て、ああ、この人もパブリック・スクール出身だな、とおもってWikipediaを見れば、やっぱり! ロンドンのHighgate SchoolとWestminster Schoolと云う伝統あるパブリック・スクールの出身だった。『英国王のスピーチ』はそのトム・フーパーのパブリック・スクール的清廉実直な演出が徹底した映画だった。でもそれは同じイングランド人であるジョージ6世を描くにはぴったりでも、オーストラリア人の言語聴覚士ライオネル・ローグを描くにはちょっと物足りなかった。パブリック・スクール的保守主義では直せなかった吃音を異邦人でもあり、医師免許さえ持っていない俳優くずれのオーストラリア人が直す過程に、もっと国民性の違いから来る文化的な衝突を加味するべきだったような気もする。若干は描いているんだけど、パブリック・スクール的価値観の廉潔な演出ではその違いがあまりはっきりとは出ていなかったのが残念。

 2011年04月13日
 シリアスマン
Posted by ag at 23:39/ カテゴリー: MOVIE_Database

シリアスマン監督:ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン
出演:マイケル・スタールバーグ、リチャード・カインド、サル・レニック、フレッド・メラメッド、アーロン・ウルフ、ジェシカ・マクマヌス、アダム・アーキン
原題:A Serious Man
制作:アメリカ/2009
URL:http://www.ddp-movie.jp/seriousman/index.html
場所:ヒューマントラストシネマ有楽町

コーエン兄弟の新作『トゥルー・グリッド』は、箴言28章1節の「悪しきも者は、 追うものもないのに逃げる」の引用から始まっていた。この箴言と云うのは、ユダヤ教では「諸書」の1つであり、キリスト教では知恵文学の1つとして『詩篇』の後に置かれるものらしい(Wikipediaより)。ユダヤ人であるコーエン兄弟は、小さな頃からこのようなユダヤ教の教典に囲まれて育っているから、その教えがどの映画にもベースとして存在していたりする。それを理解してるいるか、いないかでは、コーエン兄弟の映画の理解度が変わったりする。

『トゥルー・グリッド』の前作『シリアスマン』でも、ラシ(ユダヤ教の聖典学者)の「身に降りかかること全てをありのままに受け入れよ」の引用から始まって、まさにその通りに映画が展開して行く。普通の精神状態でこの映画を見れば、単純に煮え切らない主人公の態度にイライラするんだろうけど、ここのところの精神状態で見れば、この主人公は自分のことじゃないか! ともおもえてくる。災いが自分の身に降りかかった時、それを誰かの所為にするのは容易いし、そのほうが簡単に不満を発散することが出来る。そうしたい。そんな単純な人間になりたい。でも、どんなものだってそんな簡単に割り切れるもんじゃない。自分にだって何かしらの非があるもんだ。だから、その災いはあるがままに受け入れなければならない、なんてことを考えてしまった。たとえ子供の時からユダヤ教の教えにどっぷりと漬かっていなくても。まあ、もしかすると自分は歳を重ねるごとに、いつの間にか宗教的なものを内在化してるのかなあ。だから、他の人よりコーエン兄弟の映画を楽しめているのかもしれない。

この映画のラストには竜巻が現れる。自然災害こそ、ありのままに受け入れなければならないもっともたることか。まだまだ、これからだ。

 2011年04月08日
 ザ・ファイター
Posted by ag at 23:17/ カテゴリー: MOVIE_Database

ザ・ファイター監督:デヴィッド・O・ラッセル
出演:マーク・ウォールバーグ、クリスチャン・ベール、エイミー・アダムス、メリッサ・レオ、ジャック・マクギー、フランク・レンズーリ
原題:The Fighter
制作:アメリカ/2010
URL:http://thefighter.gaga.ne.jp/
場所:ユナイテッド・シネマとしまえん

ボクシングやプロレスを題材にした映画って、なぜかすでにそれだけで感情移入してしまってる。『ロッキー』も『レイジングブル』も『カリフォルニア・ドールズ』も『レスラー』も。『カリフォルニア・ドールズ』なんて女子プロレスの映画なのに! そう言えば女子プロレスのドキュメンタリーをテレビで見て、長与千種の「GAEA JAPAN」を扱ったものだったか、涙ぼろぼろになったことがあったような気がする。でもなぜそこまでのめり込めるんだろう? おそらく格闘技系の映画は、その屈強な身体とは裏腹に人間の弱さを惜しげもなく、恥ずかしげもなく、あからさまに描くからなんだろうか。女子格闘技系の場合は身体的な弱さも相まって、さらに増幅して感情移入してしまうのかなあ。もともと精神的に柔い自分にとってはまさに主人公に同化する要素が盛りだくさん。観る前からすでにそうなるだろうと予期しているから格闘技系映画に飛びついてしまう。

『ザ・ファイター』も今までの格闘技系映画と同じように人間の弱さが前面に立っている。過去の栄光に縋って生きているだけのクリスチャン・ベールも、家族に寄生せざるを得ないマーク・ウォールバーグも、大学を出ていながらバーで働くエイミー・アダムスも、息子たちを溺愛するだけのメリッサ・レオも。メリッサ・レオの尻に敷かれながらも矢面に立つ父親役のジャック・マクギーの、弱さの中のなけなしの強さを見せているところも。場面の繋ぎがあまり巧くなく、ボクシング・シーンも下手なので、映画全体としてはギクシャクしている感じはするんだけど、人間の弱さを演じているそれぞれの俳優たちが飛び抜けて良かったので、まあ、この映画は、そこを楽しめれば良いんじゃないかとおもう。

クリスチャン・ベールが演じているディッキー・エクランドは、シュガー・レイ・レナードをダウンさせた経験だけを心の支えに生きている。そのダウンさせたシーンが何度か映画に登場するんだけど、確かにあれはスリップに近かった。押し倒したとも言うべきか。問題のシーンはRound9の終了間際。

ディッキー・エクランドは良く戦ってる。実力差ははっきりしてるけど。

ag-n
青空文庫
青空ニュース
カテゴリー
月別アーカイブ