小さな出版社の日々
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 2005年04月29日
 “みどりっぽい”と森林療法
Posted by みやこ at 20:35 / カテゴリー: 食・農・村

今日は「みどりの日」。心身が不調に向かうと私は思う、“みどりっぽい”が足りなくなったみたいだ。そこで、なるべく緑の多い場所に身を置こうとするのだが、4月23日に「五反舎」が主催した「森林療法のための森づくり」講演会に参加して感銘したこともあって、改めて私にとって“みどりっぽい”とはどういうことなのか考えてみた。


同講演会の講師は、上原巌さん。話も巧みで会場は笑いにつつまれる。その一方、彼の態度は常に科学者で、森林療法はさらなる実践・研究が必要だという姿勢を崩さない。みんな、すぐ知ろうとするんですよね。「どんな人にどういった効果が現れますか?」「良い効果が出るのはなぜですか?」とか。
上原さんの『森林療法序説〜森の癒しことはじめ〜』(林業改良普及双書No.142全国林業改良普及協会、03年2月)によれば、〈一体なぜ森林においての活動や保養が人間に効果をもたらすのであろうか。この基本的で、しかも重要な問いかけに対する明確な答えはいまだに明らかにされていない。また、その返答にも、森林環境の持つ保健休養機能というものはむしろ数量化できないところにこそ、その重要性と価値があるものとし、理屈抜きのその効果こそが、人間の本能にかかわる森林固有の効果であるとする考え方や、緑に包まれて安らぎ、心身が落ち着くのは、人間が生まれながらにしてそのDNAに組み込んで持っている機構であって、いわば「内なる自然」であるとする考え方などがある。【中略】ヒトゲノム研究が飛躍的に進んできた今日、分子レベルから人体の森林に対する反応機構がやがて明らかになる日が来るかも知れない。小生も森林と人間の間には特有な生理現象があるはずだという考えを持っており、ホルモンの分泌変化といった何かしらの生理反応が大なり小なり見られるのではないかと仮説、あるいは想像している。〉ということである。

私の“みどりっぽい”は、たとえば、すぐ後ろに山がある旅館の室内にいても、次第に満たされてくる。ということは、フィトンチッドとかはあまり関係なさそう。どうも周辺の「緑の蓄積」が関係しているように思う。緑色でも畑だと弱いし、公園もいま一つ。圧倒的な“みどり”のもたらす何らかの効果……。また、“みどりっぽい”は、蓄えられるが、徐々に消費されていく感じがある。

先ごろ荒ぶることがあって、谷沢永一さんの『大人の国語〜隠れた名文はこれだけある〜』(PHP研究所、03年5月)に収載された井上靖さんの「北国(抄)」を読み返したのだった。そのなかの〈人生〉は次のとおり。
〈M博士の「地球の生成」という書物の頁を開きながら、私は子供に解りよく説明してやる。
――物理学者は地熱から算定して地球の歴史は二千万年から四千万年の間だと断定した。しかるに後年、地質学者は海水の塩分から計算して八千七百万年、水成岩の生成の原理よりして三億三千万年の数字を出した。ところが更に輓近の科学は放射能の学説から、地球上の最古の岩石の年齢を十四億年乃至十六億年であると発表している。原子力時代の今日、地球の年齢の秘密はさらに驚異的数字をもって暴露されるかもしれない。しかるに人間生活の歴史は僅か五千年、日本民族の歴史は三千年に足らず、人生は五十年という。父は生れて四十年、そしておまえは十三年にみたぬと。
――私は突如語るべき言葉を喪失して口を噤んだ。人生への愛情が曾てない純粋無比の清冽さで襲ってきたからだ。〉
私がいうところの“みどりっぽい”が何となく見えてくる気がする。日々の私の小さなモノサシは、大いなるモノサシに包含される、安心感のようなもの。優しく私を圧倒するみどりの存在。存在することを覚えていられる時間。体だか心だかに“みどりっぽい”が一定量あれば、我にかえることができる、「大丈夫、まだまだいける」って思うことができる。そういうことなのかもしれない。