三里塚ワンパックという野菜の自主流通をおこして、早や丸三年と四カ月ほどたつ。
ワンパックとは、あまりいい呼び名でないとの声も耳にするし、私たちも、そう思っているのだが、それに代わる呼び名がない。名前はどうでも、子は育つわけで、やりがいのある三年であった。
ワンパックというと、よくスーパーマーケットで、きれいにパックされている野菜を思いうかべる人が多いだろうが、実は、そういう代物とは、風貌、質において対極をなす野菜が、30×50×30の箱に、毎回十種類ほどつめこんである。
八百屋さんの野菜とどこが違うかといえば、まず、無農薬で有機農法で育てた野菜であること。従って、見かけは悪いものもあるが、味はバツグンなこと。次に旬の野菜であること。更に、収穫したままの姿で、泥つきであるが、とても水々しい鮮度があること。手前味噌で、自慢しだせばきりがないが、三十八人から出発して、現在、千人ほどの人々が、この野菜を食べているが、そのように、成功した訳はといえば、味のよさが大きな比重をしめていることは確かだ。誰も、まずい顔をして、私たちの野菜につき合うことなどないのだから。
このワンパック野菜を、現在、五軒の農家の共同経営で育てている。三年前は、三軒で、その後、四軒になり、五軒となった。もちろん、六軒目をさがしている。
五軒の農家で、お互いに七反歩ずつ土地を提供し合い、合計三町五反歩がワンパックの畑となっている。その畑から年間にして、五十〜六十種類の野菜が収穫される。
畑を共有し合い、労働も共同で、収入も均等割が、大まかな原則。途中の草とりなどの仕事は、分担し合うけれど、その遅れは、全体で取り戻す。植えつけや、収穫、パックづめなど、人手のかかる作業は全体でこなす。配達は各家が一コースずつうけもち、野菜にそえて会員に手渡すビラも、五軒で交替交替で書く。そして、ある事情で、全く仕事ができないことがあっても、その配分は保証されている。
ワンパックの特色は、反対同盟の農民同士が、闘いを共にすることに加えて、農作業や、生活という根っこの部分で、具体的に結びつきを強めたというところにある。
始めてから、丸三年と四カ月、野菜は、種類や量が、少なくなることはあっても、途絶えることなく三里塚から運ばれた。そして、その野菜とともに、ビラも、毎回毎回、白紙になることなく、よくも続いたものだ。正確には数えていないが、通算すると、だいたい八十号ぐらいになるだろう。これは、ワンパックの七不思議のベストワンになるのじゃないか。
これは、理屈ぬきだった。野菜を育てるのに、鶏糞がいるように、パック野菜を通わすのに、ビラは不可欠となった。鶏糞が野菜を育てるこやしなら、ビラは、野菜を通して、三里塚の私たちと、都市の生活者とを結ぶこやしとなった。ワンパック野菜とビラという組み合わせは、いつのまにか私たちの運動の、おおげさにいえば、伝統となった。
ビラ当番の順番があるのだから、前もって書いておくという手もあるが、私をふくめて、全員が、ぶっつけ本番だった。パックづめが終ると、ほとんどが夕暮で、それから、翌朝の配達に発つまでの間に、「こりゃ大変だぞ」という感じで、書いたものだ。下書きなんてない、推敲なんてない、もろ、ボールペン原紙とにらめっこして書きあげたものだ。
それにしちゃ、できがいいなんて、おだてないで下さいな。ここに載せたのは、ほんの一部でちゃんとボロはかくしてありますので。
●ワンパック満一歳 一九七七年九月下旬便
三里塚をわたる風はもう秋です。ワンパックの中味も少しずつ秋らしさを増していきます。三里塚ワンパックの第一便がでたのが一年前の九月二十五日でした。相模原の「くらしをつくる会」との間で実験的に動きだしてから一年たちます。第一便は三十八ケースでした。
保存してあるワンパックのビラを読みなおしていると、いろいろなことが想いうかびます。スクラップブックのページをめくるごとに、ワンパックを通じて知り合った人々の顔が、にぎやかになっていきます。三十八ケースから出発して、今では四七〇ケースになりました。約四七〇人もの人々が、その家で食べる野菜のほとんどを、このワンパックでまかない、膚で三里塚を感じているということは、私たちにとっての大きな支えです。
私たちの側といえば、まだ共同化をはじめて月日も浅いもので、どういう成果をうみだしたかということを、明確にまだ語れませんが、簡単に言葉にならないものとして、内なるものとして、とても大きな可能性を秘めて発酵しています。
この頃、ワンパック会員の人の、三里塚訪問が、少しずつですがふえています。援農をしてもらったり、交流会をもうけたり、三里塚現地を見てもらったり、短い時間ですが、生産者と消費者というわくを、とりはらいつつあるように思えます。三里塚へ行ってみたいなと思いたったら、是非来て下さい。子供をつれて来て下さい。私たちの都合の許すかぎり、どんどん交流を深めたいと思っています。
●土地を守り、土地を開くこと 一九七七年十月下旬便
このワンパックの運動は、単に私たちが農法の問題として、有機農法、無農薬の農業を実行し、会員の人々に安全な野菜を届けるということだけではなしに、深く、農民としてどう生きたらよいのか、そのように生きる為にどのような関係をつくり、その力を基礎にして、どのような闘いをつくりあげていけばよいのかなどということに連なっています。
三里塚で空港建設に反対し続けている私たちは、この地に空港をつくろうとする政府、空港公団の、強権的な土地収奪に、人間として当然の叫びをあげて、闘いつづけています。その方法としては、さまざまな創意をこらしながら抵抗していますが、その根のところにある、どっしりとしたものは、やはり、自分が所有し、耕しつづけている農地を守る、土地を売らないというところにあります。
土地を守るということは、たとえて言えば、自分の土地の周囲に柵をめぐらすことだと言えます。しかしながら、柵をめぐらすには、柵をめぐらす決意に加えて、柵を維持し、強化する力が必要です。国の決定したことに、最初から抵抗することを放棄する人、柵をめぐらす気持があっても、柵を維持する力の弱い人、さまざまな人びとの事情で運動のゆくえは左右されます。そのような個人的な事情、個人的な決意による不安定な運動の構造を、土地を守るうえでも、闘いを太くしていくうえでも、変えていくことがとても大事なこととなっていきます。そういう場合、土地を守る、土地を売らない、土地の周囲に柵をめぐらすということを、根本的に問いなおすことが必要とされます。
個人的な事情を少しずつ、身ぢかな人々の共同の力で解決していく、個人的な決意、思想を、日常的な仕事を通じ、日常的な闘いのなかで、共同でさらに肉づけしていく為にも、土地を開くということ、自分の土地の周囲にめぐらした柵を、闘う仲間同士で開きあうということが、具体的な問題として私たちのなかにあります。
●仮処分が却下されるまで畑とともに眠る 一九七七年十二月上旬便
私が畑へ泊りこんで四日目の朝をむかえています。夜はとても冷えます。特に午前四時ころからの冷えこみは、こたえます。それに加えて、公団、ガードマン、私服警官などのいやがらせがつづきます。それでも、この四日目も、朝方は雨がしとしとしてましたが、西のほうより晴れはじめ、連日、日中は暖かです。畑の作業もとてもはかどり、まもなく、まれなる、きれいな畑になりそうです。
私が泊りこんでいることは、新聞、マスコミなどですでに知られていることと思います。その理由については、もう一枚のビラに書いています。
この畑を人間にたとえれば、無実の罪で死刑台におくられようとしているところです。十一月二十九日に大豆の収穫をおわり、代って、この畑を守るのは、元気に芽をだしたそら豆の番です。
このそら豆は来年の六月ごろ、みなさんの手元に届く予定です。このそら豆とともに、私はこの畑に居続けます。いわれなき仮処分が却下されるまでよろしく御支援をお願いいたします。
十二月二日朝 小泉英政
畑の泊り込みを始めてから、野菜を買っていただいている多くの方々から、激励の電報や電話をいただきました。
ワンパック共同作業を始めてから、様々な事情で、全員が作業に加われない事もありましたが、共同の力を出し合って、乗り切ってきました。今回、我が家二人が仕事に出られなくても、出荷や、畑の仕事が、とどこおることなく進んでいます。仲間の力に助けられて畑を守る戦いに起てることを、本当にうれしく思います。
一日三回、畑に入るたびに、公団、ガードマンのいやがらせが絶えませんが、多くの方々の励ましが私の支えです。自分の家のいそがしい仕事をおいて、炊き出しや、ワンパックづめを手伝って下さる人達、ワンパックの仲間、そして励まして下さるワンパック会員の皆様に、心から感謝いたします。
十二月二日夜 小泉美代
●この一年をふりかえって 一九七七年十二月下旬便
早いもので、もう今年最後の便となりました。白菜がなくなったかわり、お正月用に八ツ頭が入ります。里芋もセレベスもかなわない、コクのある味は、おせち料理の豪華な一品となることうけあいです。
この一年は、ワンパックが本格的にスタートした年でもあり、又、空港反対闘争の上からも、ずいぶんいろいろなことのあった年でした。五月に鉄塔が倒され、東山さんが殺されて、夏には騒音テスト、動労のジェット燃料輸送阻止の闘い、そして開港宣言が出て、十一月末からの小泉夫婦の畑を守る闘い、岩山や横堀の要塞建設と、めまぐるしい攻防をくりひろげてきました。
ワンパックの方も、最初はワンパックに対するイメージも、仕事のやり方も、三人三様でなかなか足並がそろわず、時間的なロスがかなり出て、草とりなどずいぶんためてから、やっとやったりする有様でしたが、ポツポツときてくれるようになった会員の皆さんの援農のおかげもあって、何とかこなしてきました。
闘争と生活をどの様に両立させ、両方含めたところでの固い団結を、どのように作っていくか、その答えを求めて始められた共同管理、共同作業ではありましたが、各家の条件の違いや、それからくる仕事に対する感覚の違いを、あまりうまく調整し得ぬままに、スケジュールをこなすのに精一杯で、前半は仕事にふりまわされているきらいもありました。
これでも、とにかく一年間、月六回の出荷を、とどこおりなくこなしてきたということが、私達に大きなおちつきを与えています。
そして今、小泉夫婦がぬけていても仕事は順調に進められ、彼等の穴をうめていることによって、一緒に畑に坐りこんでいるのと同じ位、彼等の闘いを支えているのだということが、残る他のメンバーの支えになっています。こうした関係が互いの間でできたということで、ワンパックの第一の目的は、果たされたと思います。
この一年は、家の建設で言うなら、基礎を打ち土台を固めたところでしょう。やっと整ったこの土台の上に、どんな家を建てていくかは、来年の課題です。
香り高いこの三里塚の土のように、ワンパックも、そして、私達一人一人も、豊かなひろがりをもって、成長していきたいと願います。
●鯉のぼりは見られっかな 一九七八年四月下旬便
八十八夜のわかれ霜といわれるように、寒さの感じが遠くなります。それでも今年のように、こぶしの花と、桜の花の間がひらいている年は、暖くなるのが遅く感じられます。三里塚にとっては、大変忙しい春をむかえることとなりましたが、一同元気にがんばっております。
さつま芋の苗作り、さと芋、セレベス、八ツ頭の芽出し、にんじん、ねぎの植付、こかぶ、ラディッシュ、ほうれん草、なっぱ類の種まき、それにとうもろこしやかぼちゃの種も蒔きました。なす、ぴーまん、ししとうがらしなどの苗も急に大きくなり、三月まめやグリーンピースも背を伸ばしはじめました。
二月に蒔きつけた小かぶがもう食べられます。ねぎの苗は三反歩に植え付けが完了し、これから、いんげんの種蒔きをするところです。五月二十日の出直し開港が予定されている頃までには、なんとか蒔きつけ計画を完了させ、各々の田植にもメドをつけなくてはなりません。
一方では「話し合い」ムードなどという風潮が流れはじめています。国は予定の開港計画が実現できなかったと、かな切り声をあげています。しかし壊れてしまった管制塔といえどもせいぜい「物」であり、これまでの政府の強引さをもってすれば、時間と金で、そのうめあわせは可能となるでしょう。
ところで、壊された村、はぎとられ捨ててしまった土、もうとりかえしのつかない親子兄弟、肉親などの人のつながりにおける対立と亀裂、コンクリートの下にうめこめられた百姓の魂。これらのものは、いったいどのようにすれば取り返しがつくというのでしょうか。
東峰の石井家のおじいさんの武さんは、去る三月二十六〜二十七日の横堀砦のたたかいの中で逮捕され、すでに二十六日もの長い時間、不当にも拘留されつづけています。それどころか、検察当局は、ありもしない四つもの罪名をぺたぺたとはりつけて、起訴しているのです。
二十一日、小雨のふり出した頃運よく面会することができました。石井さんは、開口一番、「パックの方は大丈夫かい」と、にこにこしながら元気な声です。いく分、色が白くなったかなと思っていると、「腰が少し痛むけど、七年前には若いしら[#「若いしら」に傍点]は四ヵ月もがんばった。年寄りががんばれねえはずはねえさ。でもよ、孫の鯉のぼり見られっかなあ」と。
●作物と価格 一九七八年六月上旬便
政府が政治の命運をかけて、この十三年間いつだってそうしていたように、力にまかせて、このたびは「開港」という行事を強行したにすぎません。
一方、お百姓のほうは、六十日にもおよぶ戦いの日々があっても、たとえ一家の主人が長期の勾留を強いられていても、農作業をやめているわけにはゆきません。つゆ入り前ともなるとさすがにほとんどの農家では田には早苗が根づき、畑も根付けられた作物の緑が次第に広がってゆきます。
「開港」と農業のあいだにはこのようにはるかな距離を感じますが、同じように、価格と作物のへだたりを気に止めないお百姓はいないように思われます。
たとえば、私たちは、じゃが芋一個の値をどのように算出するのでしょう。一個のじゃが芋を食べる人はその値の根拠をどこに求めているのでしょう。3分の1に切った芋の種をまだ霜柱の立つ畑に根付けたお百姓は五月の初夏を想わせるような日にはじめてさがし当てた一つのほやほやなじゃが芋にいくらの値だんをつければよいのでしょうか。ぜひ、みなさん考えてみましょう。
みなさんの手もとにとどいた葉物を、よおく見てください。もしかしたら、一つぶの露が残ってはいませんか。これから暑い夏にむかいなるべく葉物がしおれないように、三里塚に朝日が昇りはじめしっとりぬれたころ、私たちは畑で仕事を始めます。
●待ちに待った雨がふりました 一九七八年九月上旬便
「お盆にごぼうを掘ったところ、ごぼうの長さほど、土が乾燥していたぞ」。
「いつもは、ももまでもぐってしまう田んぼに、今年はバインダー(稲刈り機械)が入ったぞ」。
何十年ぶりの干ばつとやらで、顔をあわすたびに、誰もが予想もしなかった気候にとまどい、心までがひからびそうになりながら、それでも、今日こそは、今日こそはと、見上げていた空から、ついに雨がふりました。なにが嬉しいと言ったって、こんな嬉しいことはありません。早速、秋野菜の種まき、法蓮草、小かぶ、大根、春菊と、種まく心もうきうきです。雨々ふれふれ、雨よふれ、今日も明日も明後日も。
染谷のおばあちゃんに励ましの手紙を
いつも元気にワンパックの野菜づめを手伝ってくれている染谷のばあちゃんと、田中のばあちゃんは、二軒とも、二期工区予定地内で暮しています。
そのうち染谷のばあちゃんの家では、ばあちゃんが体の具合を悪くするほど大きい悩みがありました。ばあちゃんがほとんど一人で開拓した土地を、今まで一緒に生活していた息子夫婦が、空港公団に土地を売って、東峰部落を去ることになったからです。その話しを聞いたのは、昨年でした。その時から、染谷のばあちゃんは、一人になってもここを動かないと、心にきめていました。
その頃からです。私たちのパックの仕事を手伝ってもらいはじめたのは。私たちは一人で生活するようになるばあちゃんの、生活のいくらかのたしにしてもらいたい、私たちも仕事を手伝ってもらえば、大変助かるし、そういう関係のなかで、精神的にもいくらかの支えになればと思っていました。
息子夫婦が、つい数日前に引っ越しをすませたそうです。その時も、息子の光重さんが、「ばあもはやく荷物をまとめろ」と言ったそうですが、ばあちゃんは、きっぱりと、「どこにも動かないと言ってやった」と語っていました。息子夫婦、孫たちのいなくなった家で、ばあちゃんとじいさんの二人暮しになってしまい、それでも、「せいせいしたよ」と気丈夫なばあちゃんです。
染谷のばあちゃんは、大木よねさんと、大の仲良しでした。「大木よねのとなりの墓に埋るんだ」と、七十八才のばあちゃんは、ひたすら生活に、空港反対の闘いに、うちこんでいます。
●いい車だなあ! 一九七九年六月上旬便
六月一日、待ちに待った黄色いキャンターが届きました。ワンパック会員が、毎回五十円ずつ出資することによって購入できることになったワンパックの配送車です。頭金の約二十五万円は、三里塚側で出資しました。今後、二年間、皆さんの五十円ずつのローンでトラック代金を支払います。
初乗りしてみたら、緊張したり興奮したりで、初恋の人に声をかけるような、ドキドキした心もちで体がふるえました。農民と都市の生活者が力を合わせて、新しい農業と暮しを創造していく、一歩一歩その足場を組んでいくその成果が、共同出荷場の建設、そして配送車の購入と、確実になしとげられています。
三里塚の地で、力ずくで建設されている空港に、わが身でもって反対し、息づく作物とともに農民の誇りをかけて、堂々と、新しい戦う農民の農業のあり方を、手さぐりで追い求めてきたことが、具体的に形や人の輪をともなって伸びていくこのことを、多くの人々とともに喜び合いたいと思います。
今まで、ワンパックの配送に使用していた石井新二家のキャンター、どうもおつかれさまでした。感謝!
神奈川コースでは、最近こんなことをしています。神奈川コースの途中にある協同電子労組の労働者に、野菜を無料で届けはじめました。私たちは、協同電子労組の闘いを、相模原のくらしをつくる会の人々から聞いたり、さがみ新聞で知ることができました。
協同電子労組の四十七名の人々は(パートタイマーの主婦の人々が大半を占める)、会社側の倒産攻撃にあいながらも、工場を自主管理し、労働者の当然の権利を守る闘いをおこしています。しかも、その闘いが、とても明るく、活き活きとしている様子が紙上から伝わってきました。失業保険を分けあいながら力を合わせて闘っているその人々、野菜を食べてほしい、新鮮で安全な野菜こそ、そのような人々の栄養となるべきだと思いました。
そのころ、ほうれん草が暖冬のために沢山できていました。第一回目に、そのほうれん草を届けました。二回目はラディッシュ、三回目は小かぶと、届ける量も、まだ少量ですが、ずっと続けていきたいと思っています。
闘う労働者に野菜を届けるのは、闘う農民のつとめではないか。心と体が、そう思い、そう動く。野菜をとおして、また新たな顔と出合い、闘いと出合う。
●ワンパックに仲間入りして 一九七九年六月下旬便
いよいよ梅雨入りですね。適当な湿りがあってしかも高温で、作物もほきる[#「ほきる」に傍点](勢いよく成長すること)でしょうが、草の方もすぐ山になってしまいます。田植お茶摘み等自家用の基本的食料の確保をすすめた所で、慣れないパック詰め、共同の植付作業等に追われていると、畑の方は野菜と草の背くらべになっています。これからは草との長い闘いが始まります。
昨年末から予告されていましたが、六月よりワンパックの仲間に加わりました木ノ根部落の小川です。木ノ根はご存じの方もあるかと思いますが、二期工区内のC滑走路(横風用)予定地です。
皆さんに是非来ていただきたいのですが、私の家は、おそらく反対同盟員の中でも一番飛行機が間近に見えるのではないかと思います。三・二六に管制塔を占拠した時は、じゃが芋畑からよく見えたのですが、その後開港までにあわてて作られた鉄板の壁で目かくしをされましたが、その壁一枚と向うのバリケードをはさんで、こちらは農作業、あちらは赤い巨大な尾っぽを見せてエンジンテストをしています。言葉を交そうにも聞きとれないので近頃は無言の事が多くなりました。
一年中機動隊に見張られての農作業、かえって気の張りになる位です。時には若い隊員をからかいながら。
さて私達は昨年から「微生物農法の会」に入って有機肥料、無農薬の農法を始めましたがパックの中にも入ったことのある大根、牛蒡等の出来は全く今迄に経験したことのないものでした。どちらもネマ線虫に主根を喰いちぎられて蛸足になり、大根はとう立ちが早く、蝶々が乱舞する花畑になってしまい収量は大きく減りました。やはり化成肥料や殺虫剤等で長い間痛めつけられたこの土を、豊かな作物の採れる土にするには、相当の長い年月がかかりそうです。それでも今出している春蒔大根や小蕪が、東峰のおばあちゃん達に賞められたりすると、まぐれかもしれないのに、土がよみがえってきた、あの時は息も絶えだえの状態だったに違いない、この農法を選んでよかった等と、単純に嬉しがっています。
そしてまた、この度木ノ根に、反対同盟によって(もちろん大勢の方々のカンパによって)灌漑用水設備が作られることになりました。有機農法は日照りにも比較的強いと言われますが、これからは昨年のような辛い思いをしないで済み、木ノ根の原は、一面豊かな緑のジュータンの様になることでしょう。
それにつけても、この地を飛行場にしてこの土をコンクリートの下にして殺してしまおうとは、とても考えられない許し難いことです。私達は土をよみ返らせ育てていく中で、ますます怒りが強まっていくのを覚えます。ひるがえせば、私達がどんどん土を肥やし、立派な農作物を作り、安定した農業を営み、ゆうゆうと生きていくことは、飛行場を作ろうとする人達にとって大変恐ろしいことだと思います。
その為にも、私達は「食べる側もひっくるめた共同経営」者であり「互いの生命と暮しの一部をあずけあう日常的連帯」者である皆さんと、もっともっと結びついて強くなっていく必要があるし、農民の未来もその辺りに見定めたいと…。少し大袈裟でしょうか…。でもこう書いて来て今思い出します。農民放送塔の垂幕を。「日本農民の名において収用を拒む」
それでは、永いおつきあいを、どうぞよろしくお願いいたします。