監督:フィリップ・ガレル
出演:ピエール・クレマンティ、ズーズー、ティナ・オーモン、ジャン=ピエール・カルフォン、フィリップ・ガレル
原題:Le Lit de la Vierge
制作:フランス/1969
URL:
場所:アテネ・フランセ文化センター

アテネ・フランセ文化センターの「中原昌也への白紙委任状」は、結局、最初と最後にしか行けなかった。最終日はフィリップ・ガレルの『処女の寝台』。

アテネ・フランセ文化センターでの上映なので、日本語字幕があるかどうかをちゃんと確認しなければならないのに、それをまったく怠ってしまった。なんと、今日のフィリップ・ガレル監督『処女の寝台』は日本語字幕がないどころか、英語字幕もない上映だった。ゲッ、フランス語なんてぜんぜんわかんない、と恐れおののいていたのに、なんと、字幕がなくても大丈夫だった。セリフがそんなに無かったと云うこともあるのだけれど、キリストを題材にした宗教色の強い映画だったのでどっちにしろ訳がわからなかったのだ!

映画のあとの青山真治(映画監督)、坂本安美(アンスティチュ・フランセ日本 映画プログラム主任)+中原昌也のトークショーを聞いて、ああ、自分はフランス映画を見てないなあ、と落ち込んでしまう。フィリップ・ガレルも今日はじめて観たのだった。

そのトークの中で中原昌也さんがピエール・クレマンティのことを「うざい」と云い出して、そこからブニュエルの『昼顔』(これは見てるぞ)に流れて、さらにカトリーヌ・ドヌーヴが「うざい」と云い出した。なるほど、そうかもしれない、と一度は膝を打ったけど、考えて見たら女優はうざくないとやれないんじゃないのかなあ。自分の好きな女優で言えばゴールディ・ホーンだって見ようによっては「うざい」し、美人女優に入るだろうシャーリーズ・セロンだって『ヤング≒アダルト』で「うざい」役が素晴らしかった。昔の日本の女優はことごとくそうじゃないのか。杉村春子とか山田五十鈴を持ち出すまでもなく、若尾文子だって、京マチ子だって、相当「うざい」よなあ。

→フィリップ・ガレル→ピエール・クレマンティ→フランス/1969→アテネ・フランセ文化センター→★★★

監督:金綺泳(キム・ギヨン)
出演:尹汝貞(ユン・ヨジュン)、玄吉洙(ヒョン・ギルス)
原題:죽어도 좋은 경험
制作:韓国/1988
URL:
場所:アテネ・フランセ文化センター

アテネ・フランセ文化センターで今日から始まった「中原昌也への白紙委任状」へ行ってみた。今日は金綺泳(キム・ギヨン)監督の『死んでもいい経験』。

今までも商業映画でありながら一般的な映画の作り方から外れている映画をたくさん観てきた。そしてそれを観たあとの感想は大きく二分して、中途半端な感想はまるっきりなかった。まったく酷くてつまらない映画か、なんだこりゃ!酷い!と云いながら見入ってしまう映画だ。金綺泳(キム・ギヨン)監督の映画は後者だった。

映画が終わった後に中原昌也さんと町山広美さんのトークがあって、そこで二人が話していた話しから総合すると、キム・ギヨン監督の他の映画も、今日の『死んでもいい経験』のように、その展開は何? このシーンに何の意味があるの? 今の俳優の演技はいったい何だ! らしい。そしてそれを狙ってやっているのではなくて、大真面目にやっているんじゃないか? とのことだった。

最近、またロマン・ポランスキーに新たな暴行疑惑が持ち上がったらしい。ウディ・アレンの次回作は、まるで自身を彷彿とさせるような中年男性と15歳の少女との恋愛関係を恥ずかしげもなく描くらしい。まあ、映画なんて、ありきたりな感情を持った監督が作った映画なんて面白くも何ともない。ちょっと常識からはズレてないと、おっ!何だこりゃ! と眼を瞠るような面白い映画は作れないんだなあとキム・ギヨン監督の映画を観た正直な感想だった。

→金綺泳(キム・ギヨン)→尹汝貞(ユン・ヨジュン)→韓国/1988→アテネ・フランセ文化センター→★★★

監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
出演:ライアン・ゴズリング、ハリソン・フォード、アナ・デ・アルマス、シルヴィア・フークス、ロビン・ライト、マッケンジー・デイヴィス、カーラ・ジュリ、レニー・ジェームズ、デイヴ・バウティスタ、ジャレッド・レト
原題:Blade Runner 2049
制作:アメリカ/2017
URL:http://www.bladerunner2049.jp
場所:109シネマズ木場

1982年に公開されたリドリー・スコット監督の『ブレードランナー』の続編が35年目にしてついにやって来た。それも自分にとっての最近のイチオシ監督であるドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の手による映画化なので否応にも期待感が膨らんでしまった。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督にとってカルト映画とも云える前作の続編を作り上げることには大変なプレッシャーをも感じていたんじゃないかとおもう。でも、ドゥニ・ヴィルヌーヴの才能はそれを補って余りあるものだった。うまく自分の土俵に引っ張り込んで、クローネンバーグとかエゴヤンとかとも共通するカナダ人監督特有の温かみのある人間を排除するような寒々しい世界を作り上げていた。特に、ロサンジェルス市内の酸性雨の降る湿った風景(前作を引き継いだイメージ)やウォレス社内の人工的な暗い風景とロサンジェルス郊外の赤っちゃけた風景との対比が素晴らしかった。前作の『ブレードランナー』にオマージュを捧げているような共通した部分もありながら、それでいて独自の世界を作り上げているアートディレクションにはとても感心した。

で、前作から引き継いでいる最大の謎が「デッカードはレプリカントなのか?」なんだけど、結局、今回も明快な解答はなかった。ただ、今回の映画では、主人公であるライアン・ゴズリング演じる「K」がレプリカントであることを明確にしていて、クライマックスでの「K」と「ラヴ」との格闘シーン(そのパンチの繰り出し方や不屈な耐久性)に、まるで前作の「デッカード」と「ロイ・バッティ」との格闘シーンと、おそらく、意識的にオーヴァーラップさせていることから判断するには、やはりデッカードはレプリカントだったんじゃないかとおもわざるを得ない作りにはなっている。さらに、「デッカード」の「ユニコーンの記憶」と「K」の「木馬の記憶」を対比させていることからも二人に共通項を見出すことができる。

となると、なぜ「デッカード」と「レイチェル」の二人のレプリカントに寿命の縛りがなかったのか、そしてレプリカント同士の生殖が可能なのか、と云う疑問が生まれてしまう。ここが今回の映画の最大のポイントで、そこに人間の世界の宗教が取り扱って来た「奇跡」を持ち込んでいることから、この二人がレプリカントたちの救世主的な祖となって、その娘である「アナ・ステリン」がそれを受け継ぐ教祖となって行くんじゃないかと想像してしまう。レプリカントたちを支えるのは「アナ・ステリン」が作った彼らの記憶との共感。

もし次回作があるとするのならば、人間とレプリカントとの全面戦争になるんじゃないのかあ。レプリカントたちを支えるのは「アナ教」ともなる「アナ・ステリン」、そしてそのコピーである「K」と云うことになるのかな。「K」が「ユダ」にならなければ良いのだけれど。

→ドゥニ・ヴィルヌーヴ→ライアン・ゴズリング→アメリカ/2017→109シネマズ木場→★★★★