淵に立つ

監督:深田晃司
出演:浅野忠信、筒井真理子、古舘寛治、篠川桃音、太賀、三浦貴大、真広佳奈
制作:映画「淵に立つ」製作委員会、COMME DES CINEMAS/2016
URL:http://fuchi-movie.com
場所:角川シネマ新宿

カンヌ映画祭に行った知り合いから、そのカンヌの「ある視点」部門で審査員賞を獲った『淵に立つ』を絶対に観るようにと指示されたので観てみた。

どんなストーリーなのかまったく知ることもなくこの映画を観たので、浅野忠信が登場した時点で、昔の西部劇の『シェーン』のような、「外」からやって来た部外者が次第に「中」に溶け込んで行って、しまいには「中」にあった問題点をも解決するほどの影響を残して静かに去って行くタイプの映画ではないかと勝手に推測して見始めていた。

ある意味、それは正解だった。古舘寛治の古い知り合いである浅野忠信がふらりとやって来て、すでに形骸だけの古舘寛治の家族に大きなショックを与えて、たとえそれが「後悔」や「自責の念」であったとしても血の通った感情をぶつけ合える家族に再生させて静かに去って行く。まるで善と悪とにきっちりと境界線が引かれていた古い時代のまやかしを取り去った『シェーン』のようだった。

でも、浅野忠信の演じる人物は何だったんだろう? と後から考えてしまう。キッチリとした服装と折り目正しいしぐさや言動から、たとえ過去に殺人を犯していたとしても、それをしっかりと反省をし、更生を済ませた人物のように見える。その反面、能面のような表情の乏しさからは、それがまやかしのようなイメージをも与える。一度だけ、冗談のような口ぶりながらも「なんでオレがお前じゃないのかと思う時がある。なんでお前だけ結婚して、セックスしまくって、子供を作ってんだろうと思うときがあるよ」と感情を爆発させる時があった。この時のみが浅野忠信を血の通った人間と感じる唯一の時だった。

あの公園での事件が「故意」ではなくて「過失」であったことを少なからず匂わせていることを考えると、おそらく、浅野忠信の演じる「八坂草太郎」と云う人物を単純な「悪人」にはしていなかった。自分が殺してしまった人物の遺族に真摯な手紙を書き、古舘寛治と筒井真理子の夫婦の一人娘にやさしくオルガンを教える姿はおそらくストレートな感情から来るものだとおもうし、だからこそ筒井真理子に対してストレートに欲情を催してしまう単純さも持ち合わせているし、内心には古舘寛治に対する不満も単純にくすぶっているんじゃないかと想像できる。

おそらく浅野忠信の演じる「八坂草太郎」と云う人物は、カリカチュアされているけど、悪人でもなく、かと云って善人でもなく、我々と同じようなフツーの人間だったんじゃないかとおもう。でもそんなフツーの人間の行う所業が不気味に見えることこそが、いまのネットのSNSにも云える本当の恐怖で、そんなフツーな人間によってもたらされる事件によって、死人のようだった古舘寛治はかえって生き生きと行動が活発となり、筒井真理子は誰もが不潔に見えてしまう潔癖症に陥ってしまうと云うように、その影響がどっちに転ぶかわからないような複雑な時代に我々は生きているんだという困難さがことさら際立って見えるような映画になっていた。

キリスト教の「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」の教えがところどころに顔を出す部分にも、この複雑な時代にとっての宗教の教えが、人びとがまだまだ無垢だったころの遺物でしかなくて、そこで説かれる単純な自己犠牲の説教だけでは自分自身を追い込むことにしかならないことを暗に示していた。でも、その単純さに感動を示す浅野忠信には、かえって時代遅れのヒーローとも見えてしまうところがこの映画の複雑さだった。

映画のラストで、筒井真理子が娘と一緒に絶望の淵に立った時に、隣に見えた浅野忠信の幻影に後光が差して美しく見えたのは、彼こそが二人を導く救世主をも意味しているようにも見えてしまった。映画のはじめに浅野忠信が登場した時点で、どこかにこのような結末を期待している自分がいて、やっとそのとおりの結果に導かれて、残酷な結末でありながら不思議な安堵感に包まれるラストシーンだった。

→深田晃司→浅野忠信→映画「淵に立つ」製作委員会、COMME DES CINEMAS/2016→角川シネマ新宿→★★★★