監督:パトリシオ・グスマン
出演:アウグスト・ピノチェト
原題:Le cas Pinochet
制作:フランス、チリ、ベルギー、スペイン/2001
URL:
場所:アテネ・フランセ文化センター

パトリシオ・グスマン監督の『チリの闘い』3部作は、1973年にチリで起きたクーデターを丁寧に追いかけたドキュメンタリーだった。世界で初めて自由選挙によって合法的に成立したアジェンデ大統領による社会主義政権が、いかにしてアウグスト・ピノチェト将軍を中心とする軍部によって崩壊させられて行ったのかを実際の映像を使って時系列に整理して、今見てもて映像アーカイブとしての資料価値もある素晴らしいドキュメンタリーだった。

そのクーデター後、政権を握ったピノチェト将軍と軍政評議会は過酷な「左翼狩り」を行って、数多くの死者や行方不明者を出すことになる。パトリシオ・グスマン監督の『ピノチェト・ケース』は、埋められた場所から行方不明者を掘り起こすシーンから始まる。そして、殺されたり、行方不明となったりしている人々の家族や拷問された人たちへのインタビューにつないでいく。さらに、高齢となったアウグスト・ピノチェトが病気療養のために向かったイギリスのロンドンで、スペインの司法当局の要請を受ける形でイギリス政府が彼を拘束、逮捕する事態をカメラは追いかける。

アウグスト・ピノチェトが残酷な「左翼狩り」を行う機運を高めるような体制づくりに加担したのは事実だとおもう。でも、一つ一つの虐殺や拷問を指示していたわけではないのも事実で、すべての殺人の責任を彼だけに押し付けるのは無理なことも確かだ。このような国家的な犯罪へのやりようにない怒りをいったいどこにぶつけたらいいのだろうか。この『ピノチェト・ケース』の遺族や犠牲者へのインタビューでは、やはりそこは、ピノチェトへの怒りをあらわにするだけではなくて、涙を流しながらも残されたものたちの「人生までは奪えない」と未来へ向けた希望を語らせることで締めくくらざるを得なかった。安易な「未来志向の関係」なんて空疎な言葉を語るのも憚られるけど、やはりそうせざるを得ないところが国家的な犯罪に対するもどかしさだった。

→パトリシオ・グスマン→アウグスト・ピノチェト→フランス、チリ、ベルギー、スペイン/2001→アテネ・フランセ文化センター→★★★☆

監督:ショーン・エリス
出演:キリアン・マーフィ、ジェイミー・ドーナン、アンナ・ガイスレロヴァー、シャルロット・ルボン、トビー・ジョーンズ、ハリー・ロイド、アレナ・ミフロヴァー、ビル・ミルナー、マルチン・ドロチンスキー
原題:Anthropoid
制作:チェコ、イギリス、フランス/2016
URL:http://shoot-heydrich.com
場所:新宿武蔵野館

1975年に作られたルイス・ギルバート監督の『暁の七人』は、第二次世界大戦中にナチスの高官であるラインハルト・ハイドリヒがチェコスロバキアのプラハで暗殺された事件(エンスラポイド作戦)を忠実に再現した映画だった。無謀ともおもえる作戦を決死の覚悟で遂行するチェコ人たちの姿が、実際にロケ撮影したプラハの歴史的な街並みと共に哀感豊かに描かれていたアクション映画だった。

その『暁の七人』のリメイクくらいの感覚でショーン・エリス監督の『ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦』を観に行った。確かに、実話を元にしているわけだから、細かなディティールに差異はあるものの基本的なストーリーは『暁の七人』と同じだった。ただ、この40年くらいの歳月のうちに映画におけるリアリズムへの追求が著しく、暗殺犯たちとの連絡係となる音楽大学の学生であるアタへの拷問シーンが『暁の七人』と比べるとあまりにも凄まじかった。まだ幼い風貌の残るアタに向けた、バイオリン弾きの命でもある手が破壊される拷問は、むごたらしいビジュアルに加えて精神的なダメージをも受けてスクリーンから目をそらしそうになった。ここ数日の天候不順から来る自律神経の乱れも相まって、いやあ、このシーンを観るのがとても辛かった。

でも映画って、リアリティが豊かになればなるほど見たくもないものを見せられる可能性が出てくるんだけど、不快=つまらない、ではないんだよなあ。何度も云うけど。

エンスラポイド作戦が正確にどんなものだったのかをもっと知りたくなった。ちょうど昨年の11月に白水社から「ヒトラーの絞首人ハイドリヒ」と云う本が出てたので、これはいいタイミングだ! とおもったら税込5,184円だった。うーむ。

→ショーン・エリス→キリアン・マーフィ→チェコ、イギリス、フランス/2016→新宿武蔵野館→★★★☆

監督:マレク・ペストラク
出演:セルゲイ・デスニッキー、ボレスラフ・アバルト、ウラジミール・イワショフ、アレクサンドル・カイダノフスキー
原題:Дознание пилота Пиркса
制作:ソ連、ポーランド/1979
URL:
場所:アテネ・フランセ文化センター

ソ連の時代に作られたSF映画と云えばタルコフスキーの『惑星ソラリス』を真っ先に思い出すけど、同じスタニスワフ・レム原作で『ピルクスの審問』と云う映画があることをアテネ・フランセ文化センターの今回の「ソヴィエト・フィルム・クラシックス 冒険・SF映画編」で知って、タルコフスキーの映画には足元にも及ばないトンデモ映画を期待して観に行った。

マレク・ペストラク監督の『ピルクスの審問』は、図らずも同じ1979年に作られたリドリー・スコットの『エイリアン』と同じプロットを使用していて、宇宙船の乗組員の中の誰がアンドロイドなのか? がストーリーの軸となるサスペンス映画だった。ただ、このサスペンスの演出がリドリー・スコットと比べるまでもなくて、正体を突き止めるべく手に汗を握るような展開を期待していたのに、どこかボンヤリとした結末となって消化不全。この映画はアンドロイドが誰であるかがポイントじゃなかったのか! と叫ばざるを得ない映画だった。

でも、スタニスワフ・レムの原作がそうなのかわからないけれど、1979年のソ連で制作された映画なのに、西でも東でもないユニバーサルな国の設定で「パンナム」や「マクドナルド」が普通に出てくるところが面白かった。カーチェイスのシーンに1970年代のニューシネマっぽい匂いも感じられるし。

→マレク・ペストラク→セルゲイ・デスニッキー→ソ連、ポーランド/1979→アテネ・フランセ文化センター→★★★

監督:マーレン・アーデ
出演:ペーター・シモニスチェク、サンドラ・フラー、ミヒャエル・ビッテンボルン、トーマス・ロイブル、トリスタン・ピュッター、ハデビック・ミニス、ルーシー・ラッセル、イングリッド・ビス、ブラド・イバノフ、ビクトリア・コチアシュ
原題:Toni Erdmann
制作:ドイツ、オーストリア/2016
URL:http://www.bitters.co.jp/tonierdmann/
場所:新宿武蔵野館

常識に囚われないおかしな行動をする人間を不快におもいつつも、その行動の所為で常識に縛られすぎている今の自分の境遇に疑問を持ち始める設定は、ドラマの構成においては盤石なパターンだったりする。『ありがとう、トニ・エルドマン』はこれを父娘の関係に生かした設定だった。ただ、これが日本のドラマだったりしたら、おかしな行動に「笑い」を求めすぎてしまって、エキセントリックさが際立ったりしてしまう。『ありがとう、トニ・エルドマン』での父親の行動は、やりすぎちゃうんだけど呆れ返るほどではなくて、大笑いするほどのハズし方でもなくて、この微妙な行動は何? と云っている間にそれが少しずつボディブローのように効いて来る映画だった。上から目線で居丈高に娘を諭そうとしないヘンテコな親父の人物像が素晴らしかった。

それから、もう一つ。ビジネスのコンサルティングをしている娘の派遣先がルーマニアのブカレストだった。EUへの加盟も実現して、経済的に復興しつつあるルーマニアだけど、そこはケン・ローチの描くイングランドと同じように貧富の差はますます拡大するばかり。神経をすり減らしながらルーマニアの石油企業のために仕事をする娘と、ブカレストに住む庶民と交流を深める父親との対比も、この映画での重要なテーマの一つだった。おそらく子供の頃に父親から教わっただろうとおもわれるホイットニー・ヒューストンの「Greatest Love of All」を娘がブカレストの人たちの前で歌うとところは泣ける!

→マーレン・アーデ→ペーター・シモニスチェク→ドイツ、オーストリア/2016→新宿武蔵野館→★★★☆

監督:ロバート・エガース
出演:アニャ・テイラー=ジョイ、ラルフ・アイネソン、ケイト・ディッキー、ハーヴェイ・スクリムショウ、エリー・グレインジャー、ルーカス・ドーソン、ルーカス・ドーソン
原題:The Witch / The VVitch: A New-England Folktale
制作:アメリカ/2015
URL:http://www.interfilm.co.jp/thewitch/
場所:新宿武蔵野館

夜の闇が濃かった時代には、そこに潜む得体の知れないものへの恐怖があって、それは当時としては理解することのできなかった自然現象やどう猛な動物への畏怖が相まった感情から生ずるものでもあって、そう云った自分たちの理解することのできないものに対する怖れに解答を与えてくれるのが古代からの「宗教」の一つの側面だったんじゃないかともおもう。でも、その反面、自分たちの「宗教」に依存してもらうために恐怖を助長する側面もあって、だからこそキリスト教における「魔女」なんて概念も存在してしまった。

ロバート・エガース監督の『ウィッチ』は、1620年にメイフラワー号によって多くのイングランド人が入植して間もないアメリカのニューイングランドが舞台。教会との何かしらの確執から入植地を追放された親子6人家族は、まだまだ「闇」が多く存在する森の近くに住まわざるを得なくなってしまう。そこで幼い男の赤ちゃんが「神隠し」にあってから徐々に歯車が狂い始め、次々に家族の中の男のみが災難に見舞われていく。こうなると、この災難の原因を探りたくなるのが追い詰められた人間のよくある心情で、母親はそれを赤ちゃんがいなくなった時にそばにいた長女に見出してしまう。悪魔と契約した「魔女」ではないかと。

実の娘を「魔女」と疑い始める感情というものはいったいどんなものなんだろう? キリスト教徒でなければ理解不能のような気がする。理解するためのキーとしては、「月のもの」を迎えた女の子、と云うことと、姉に対して弟が性的欲求を見せるショットがある、と云うあたりかなあ。キリスト教にはルカによる福音書に出てくる「罪深い女」やヨハネによる福音書に出てくる「姦通の女」が絶えず重要視されていて、そこから淫らな女への嫌悪がすごく強いような気もする(特にキリスト教に関係する映画において)。信心深ければ深いほど、性的魅力を備えた若い女性への警戒心が強くなってしまう。だから実の娘を「魔女」と結びつけてしまうのか。

『ウィッチ』は入植地を追放された家族が狂っていく描写が美しいとともに、キリスト教徒でなくともゾッとするほどの怖さがあった。美しさと恐怖は紙一重だ。

→ロバート・エガース→アニャ・テイラー=ジョイ→アメリカ/2015→新宿武蔵野館→★★★☆

監督:ノア・バームバック、ジェイク・パルトロウ
出演:ブライアン・デ・パルマ
原題:De Palma
制作:アメリカ/2015
URL:
場所:新宿シネマカリテ

ブライアン・デ・パルマの映画を最初に映画館で観たのは1981年に日本で公開された『殺しのドレス』だった。ヒッチコックの『サイコ』にオマージュを捧げた映画として話題となって、当時、和田誠の「お楽しみはこれからだ」の影響からヒッチコックの映画を一生懸命に追いかけていた自分にとっては、観なければ! の映画だった。でも、当時の評価としては、ヒッチコックの安易な模倣として嫌悪を示す映画評論家も大勢いて、自分が映画を多く観はじめてからの作品としては、リアルタイムに賛否両論の嵐を体験した初めての映画だったような気もする。

ところが、この映画が、とても気に入ってしまった。確かにヒッチコックよりは下品で、捻りのないそのままストレートな『サイコ』の引用な気もするけど、そのけれんみのない純粋なヒッチコックへの愛情に好感を持ってしまった。スピルバーグにも通ずる映画に対する無邪気さをも感じ取ってしまった。そこからはずっと、過去の作品も含めてブライアン・デ・パルマを追いかけて来て、大好きな映画も、なんだこりゃの映画もあったけど、総合的には大好きな映画監督だった。

ノア・バームバックとジェイク・パルトロウが撮ったドキュメンタリー映画『デ・パルマ』は、単純にブライアン・デ・パルマへのインタビューでのみ構成されていて、彼が1963年に撮った『御婚礼/ザ・ウェディング・パーティ』からはじまって2012年の『パッション』に至るまで、一つ一つの作品が丁寧に彼自身によって語られて行く。ただ、それは、撮影方法とか俳優の起用方法とか作品論と云った「ヒッチコック/トリュフォー」のようなものではなくて、作品を世に出すまでに如何に自分の信念を貫いたかの逸話に多くが割かれていた。そこから彼の映画に対する情熱が充分に伝わって来て、やはりピュアな心を持ち続けることが映画制作には必要不可欠なんだなあ、と、子供がそのまま大きくなって人の良いおじさんになったように見えるブライアン・デ・パルマがますます好きになってしまった。

→ノア・バームバック、ジェイク・パルトロウ→ブライアン・デ・パルマ→アメリカ/2015→新宿シネマカリテ→★★★☆

監督:米林宏昌
声:杉咲花、神木隆之介、天海祐希、小日向文世、佐藤二朗、 大竹しのぶ、渡辺えり、遠藤憲一、満島ひかり
制作:「メアリと魔女の花」製作委員会/2017
URL:http://www.maryflower.jp
場所:109シネマズ木場

『かぐや姫の物語』と『思い出のマーニー』をプロデュースした西村義明が、スタジオジブリの制作部が解体されたあとにスタジオポノックを設立して、その第一回作品として『借りぐらしのアリエッティ』と『思い出のマーニー』を監督した米林宏昌と一緒に『メアリと魔女の花』を撮った。

おそらくスタジオジブリの正統な継承者としてスタジオポノックは存在して行くのだろうけど、それは宮崎駿のスタイルをそのまま継承して行くと云うことではなくて、宮崎駿のテイストを受け継ぎつつも自分たちのスタイルを確立していかなければならない困難が目に見えてそこにあると云う、なんとも茨の道を突き進む決心をしているところがチャレンジャーだ。

第一回作品の『メアリと魔女の花』は、やはりまだジブリの、と云うか宮崎駿の呪縛にがんじがらめのように見えてしまうのがかわいそうだった。

プロデューザーの西村義明が以下の記事で云っているように、

ジブリと宮崎駿の呪い “リストラ”された後継者たちの「その後」

米林宏昌が「宮崎駿が持っていたアニメーションのダイナミズムを一子相伝で受け継いでいる稀有な存在」ならば、そうそう、まずはこの1点にのみ注目して、原作ありきの魔女モノのような宮崎駿がやりそうなことは置いておいて、もっとオリジナルなモノでダイナミックなアニメーションにトライできたらよかったんじゃないかともおもう。でも、そうすれば、ジブリに付いていた客をすべて拒否することにもなるのでますますチャレンジャーになるんだけど、どうせ茨の道を進む覚悟をしているのならば最初からやっておいた方がよかった。

→米林宏昌→(声)杉咲花→「メアリと魔女の花」製作委員会/2017→109シネマズ木場→★★★

監督:メル・ギブソン
出演:アンドリュー・ガーフィールド、ヴィンス・ヴォーン、サム・ワーシントン、ルーク・ブレイシー、ヒューゴ・ウィーヴィング、ライアン・コア、テリーサ・パーマー、リチャード・パイロス、レイチェル・グリフィス
原題:Hacksaw Ridge
制作:アメリカ/2016
URL:http://hacksawridge.jp
場所:ユナイテッド・シネマ浦和

子供のころ、ミリタリー系のプラモデルを作るのが好きだった。その流れから、第二次世界大戦についての本を読むのも好きだった。だから、太平洋戦争のミッドウェーとか、ガダルカナルとか、レイテとか、主要な戦闘の知識はあったし、沖縄の戦争のこともある程度は知っているつもりだった。でも、ハクソー・リッジ(浦添城址の南東にある「前田高地」の急峻な崖にアメリカ軍が付けた呼称)の戦闘のことはまったく知らなかった。硫黄島もそうだけど、地下にもぐった日本軍の必死の抵抗は数多くあって、それぞれの細かな激戦については文献として残ることもなく、すっかりと忘れ去られてしまう運命にあるんだよなあ。そういった意味においては、たとえハリウッド映画だったとしても、太平洋戦争での悲惨な激闘の歴史を注目することができたのは嬉しかった。

とは云っても、もうすでにインディアンをバッタバッタと皆殺しにするような西部劇が作られなくなってから久しいのに、日本兵がゾンビのごとく人間としての尊厳もなく殺されて行くのを見るのは、まあ、なんともいい気持ちはしない。でも、でも、今の時代は公平性もちゃんと担保されて、アメリカ兵側も同等にむごたらしく殺されてしまうのが時代性と云うものなのかもしれない。それに、阿鼻叫喚をきわめた戦闘のむごたらしさは、VFXの進化によって臨場感たっぷりに腹の底にまで伝わってくるので、日本兵側にも人間としてのドラマがあるだろう! なんて、クリント・イーストウッドの映画のようなものを求める気持ちをぐっと抑えて、そこはリアルな戦闘シーンを楽しむことだけ念頭に置いて観ることだけに専念した。そして楽しんだ!

メル・ギブソンって、監督の力量はそれなりにあるとはおもう。映画の主題に『がんばれ!ベアーズ』的な「強さに勝る弱さ」を持って来て、映画を観ている人のエモーションを、これでもか、と煽るところが抜け目ないけれど、その狡さを差し引いても面白い映画だった。

→メル・ギブソン→アンドリュー・ガーフィールド→アメリカ/2016→ユナイテッド・シネマ浦和→★★★☆

監督:アスガル・ファルハーディー
出演:シャハブ・ホセイニ、タラネ・アリシュスティ、ババク・カリミ
原題:فروشنده
制作:イラン、フランス/2016
URL:http://www.thesalesman.jp
場所:ル・シネマ

今年のアカデミー賞の外国語映画賞にノミネートされていながら、トランプ大統領がイスラム圏特定7か国の国民を90日間入国禁止にしたことに抗議し、アスガル・ファルハーディー監督と主演女優のタラネ・アリドゥスティが授賞式をボイコットしたことでも話題となった『セールスマン』をル・シネマの最終日にやっと滑り込んで観てみた。

アスガル・ファルハーディー監督の2011年の作品『別離』はとても面白い映画だった。イランの社会状況を反映させたサスペンス調のこの映画は、男と女の関係や富めるものと貧しいものとの関係など、イスラム社会であっても日本と共通するテーマを扱いながらも、まだまだ高圧的な男性が女性を支配する状況はムスリム特有の問題であって、そこから生まれるDVをも感じさせる暴力的な緊迫感がサスペンスを盛り上げる要素として有効で、予測もつかない展開にぐいぐいと引き込まれる映画だった。

今回の『セールスマン』は、構造としては『別離』にとても良く似ていたけれど、アーサー・ミラーの「セールスマンの死」を上演する劇団員の夫婦と云う設定がとても効いていて、二人の関係がまるで「セールスマンの死」の中の年老いた63歳のセールスマン、ウィリィ・ローマンと家族との関係にダブるところが「映画内劇」とか「映画内映画」が大好きな自分としては堪らなかった。イランであろうとアメリカだろうと、宗教は違えども人間関係から起きる問題は普遍的であることから、二国間に横たわる政治的な緊張をも乗り越えてテヘランでアメリカの戯曲を上演しようと努力する人びとを見るのも楽しかった。

でもやっぱり、『別離』ほどではなかったけど、夫が妻に対する高圧的な態度は不快だなあ。イスラム圏の映画を見ると、よくある情景なんだけど。

https://wan.or.jp/article/show/3470

このブログに人が云うには「もっともっと頭が古くさくてさらに高圧的な態度にある男性はイランにはまだまだごまんといます」なんだそうだ。

→アスガル・ファルハーディー→シャハブ・ホセイニ→イラン、フランス/2016→ル・シネマ→★★★★

監督:古居みずえ
出演:菅野榮子、菅野芳子
制作:映画「飯舘村の母ちゃんたち」制作支援の会/2016
URL:https://www.iitate-mother.com
場所:武蔵大学江古田キャンパス 地下1002シアター教室

2014年に福島の南相馬で毎年行われる相馬野馬追祭りへ行った時に車で飯舘村を通過した。その時に真っ先に目に飛び込んできたのは黒いフレコンバックの積まれた山だった。このフレコンバックには土地を除染するために取り除かれた表土や草木が入っていて、それが4段にわたって積み上げられ、放射線を遮るために周りと一番上の五段目には汚染されてない土を入れた袋がさらに積み上げられていた。この袋が「黒」であることから、アニメ「電脳コイル」のイリーガルのような、なにか、人間が作ったバグの集合体にも見えてしまって(実際、そうなのかもしれない)、すっかりと意気消沈してしまった記憶がある。

ただ通過するだけの旅行者でさえ、あの黒いフレコンバックの積まれた山を見れば心穏やかではいられないのに、そこに住んでいた人たちの心境がいかほどのものなのか想像すらできない。実際に住んでいた人たちの気持ちには到底及ぶことはできないのだけれど、その気持ちに少しでも寄り添えたらとおもって、毎年恒例の「被爆者の声をうけつぐ映画祭」で上映される古居みずえ監督の『飯舘村の母ちゃんたち 土とともに』を観てみた。

『飯舘村の母ちゃんたち 土とともに』の主人公とも云える菅野榮子さんは明るかった。絶えず、ガハハハ、と笑っている。でも、その笑いと笑いのあいだの、間(ま)、に見せる真剣な眼差しとの落差がとても怖かった。ああ、この人は、明るく見せてはいるけれど、神経の細やかな人の見せる仕草がところどころにあることから、画面から伝わってくる外見とは違う、もっと神経質な人なんじゃないかと映画を見ながらずっと考えていた。このことは、映画上映後の古居みずえ監督のトークで、菅野榮子さんは鬱になりそうな時期もあったとのエピソードから、映画の中での「こうやって人は鬱になって行くんだねえ〜」なんて冗談交じりに笑いながら云うシーンが実際の自分の経験からくるセリフなんだということもわかって、ああ、やっぱり、その明るさとは裏腹の、とてもナイーブな人なんだと確認することができた。

仮設住宅での生活を楽しんでいるかのように見えるその姿も、ドキュメンタリーと云ったってスクリーンに映し出されるものがすべてではないことをことさら再認識させてくれるような、いや、洞察深く注意して見れば内面をも見通すことができる力が映像には秘められているんだと認識させてくれたような、ドキュメンタリー映画の素晴らしさを確認させてくれるような映画だった。

ドキュメンタリー映画って、深刻な題材を深刻なまま伝えるのはそれはそれでストレートで良いんだけど、一生懸命に繕っている人たちの姿を見ることも、これもまた却って深刻さが引き立って見えたりもするのでこれもまた良いものだ。いつも云ってるけど、ドキュメンタリー映画はなんでもありだ。真剣な眼差しも、繕っている意地も、嘘をついている情けなさも、なんでもありだ。

→古居みずえ→菅野榮子→映画「飯舘村の母ちゃんたち」制作支援の会/2016→武蔵大学江古田キャンパス 地下1002シアター教室→★★★☆