監督:バリー・ジェンキンス
出演:トレヴァンテ・ローズ、アシュトン・サンダース、アレックス・ヒバート、アンドレ・ホランド、ジャレル・ジェローム、ジェイデン・パイナー、ナオミ・ハリス、ジャネール・モネイ、マハーシャラ・アリ
原題:Moonlight
制作:アメリカ/2016
URL:http://moonlight-movie.jp
場所:ユナイテッド・シネマ浦和

今年のアカデミー賞作品賞は、プレゼンターのウォーレン・ベイティとフェイ・ダナウェイからいったんはデミアン・チャゼル監督の『ラ・ラ・ランド』と発表されながらも、受賞者の名前が書いてある用紙の渡し間違えがわかって、バリー・ジェンキンス監督の『ムーンライト』へと変更になって大混乱になってしまった。まあ、そんな混乱もハプニングとして印象深く記憶に残るものなので、『ムーンライト』にとってはおいしい授賞式だったのかもしれない。

そのバリー・ジェンキンスの『ムーンライト』は、ドラッグを中心にしなければ生活が回って行かない黒人社会の中の「シャロン」と云う少年の成長を追いかけた映画だった。この「シャロン」は、まだまだ貧困者の多い南部の「黒人」クラスタに属するだけではなくて、子供の頃から「ゲイ」のクラスタにも属していて、映画を観る前の情報だけから判断すると、マイノリティの中のさらにマイノリティの人間の苦悩のストーリーなのかと勝手におもっていた。

実際に映画を観てみると、そのマイノリティな部分はおもったほど中心に描かれてなくて、もっと純粋な家族同士の憎しみとか愛とか、父親(のような年長者)と子供の信頼関係とか、男同士の友情とか愛情とか、「黒人」や「ゲイ」に関係することだけではない普遍的なテーマが中心として描かれていた。

特に、同級生からいじめを受けていた「シャロン」とドラッグの売人である「フアン」との関係が、父親のいない「シャロン」にとっては父子のような関係として描かれていて、「フアン」の誠実な物言いが「シャロン」にも影響を与えて行って、しまいにはドラッグの売人と云う同じ道を歩んでしまうところがなんともやりきれなかった。そして時代が移り変わって、さらりと「フアン」が(おそらくドラッグがらみで)死んだことがわかるシーンでは、「シャロン」の行く末も「死」しかないのではないかと暗示しているところも辛かった。

「フアン」が子供のころに見た、月の光の下では蒼く光って見える黒人の子供たちのエピソードが、おそらくはこの映画のタイトルの元になっているのだろうけど、そのイメージどおりの危うい美しさが全編に漂っている切ない映画だった。

→バリー・ジェンキンス→トレヴァンテ・ローズ→アメリカ/2016→ユナイテッド・シネマ浦和→★★★★

監督:ルパート・サンダース
出演:スカーレット・ヨハンソン(田中敦子)、ピルー・アスベック(大塚明夫)、ビートたけし、ジュリエット・ビノシュ(山像かおり)、マイケル・ピット(小山力也)、チン・ハン(山寺宏一)、ダヌーシャ・サマル(山賀晴代)、ラザルス・ラトゥーエル(仲野裕)、泉原豊、タワンダ・マニーモ、桃井かおり(大西多摩恵)
原題:Ghost in the Shell
制作:アメリカ/2017
URL:http://ghostshell.jp
場所:109シネマズ木場

押井守監督の『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年)は、アメリカの『ビルボード』誌のホームビデオ部門で売上第1位を記録したためにハリウッドの映画人にも多くの影響を与えた作品で、いったい誰の手で実写化されるのか早くから期待されていた作品でもあった。で、それが20年目にしてやっと実現された。

どんな場合でも「元」がある場合には、その「元」のイメージを損なわずに、それでいてあわよくば「元」を凌駕させようと狙う作業は大変なことだ。でも、その「元」にある重要なエッセンスさえ継承されていれば、まあ、充分に観賞に堪えうる作品になるとおもうのに、いつもそれがなぜかなおざりになってしまうのはなぜなんだろう。

押井守監督の『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』に出てくる名セリフとして以下の二つがある。

「そう囁くのよ、……私のゴーストが 」
「さて、どこへ行こうかしら、ネットは広大だわ」

この二つのセリフが意味するところのエッセンスがルパート・サンダース版にはまったく継承されていなかった。もちろん義体化や疑似記憶も重要なファクターだけれど、まずそれよりも膨大なサイバースペース情報網での攻性防壁を介してのハック合戦にこそに興奮を覚える部分なんだけどなあ。それは神山健治版「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」にはちゃんと継承されていた部分でもあったのに、なぜそこがないがしろにされたのかまったく理解できなかった。もしルパート・サンダースの首の後ろにジャックがあったのなら、そこに誰か、押井守でも神山健治でも良いんだけど、直接接続して伝えられたのに。

→ルパート・サンダース→スカーレット・ヨハンソン(田中敦子)→アメリカ/2017→109シネマズ木場→★★☆

監督:ケン・ローチ
出演:デイヴ・ジョーンズ、ヘイリー・スクワイアーズ、ディラン・マキアナン、ブリアナ・シャン、ケイト・ラッター、シャロン・パーシー、ケマ・シカズウェ
原題:I, Daniel Blake
制作:イギリス、フランス、ベルギー/2016
URL:http://danielblake.jp
場所:新宿武蔵野館

ケン・ローチの映画は、「ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート」を書いたブレイディみかこが云うところの「地べた」の人びとばかりを描いていて、その方向性は一貫して変わらない。そのケン・ローチが二度目のカンヌ国際映画祭パルムドールを獲得することになった『わたしは、ダニエル・ブレイク』も、まさにイングランドの「地べた」にいるダニエル・ブレイクが主人公だった。

イングランドのニューカッスルで大工として働く59歳のダニエル・ブレイクは、心臓病を患ったために医者から仕事をストップされてしまう。生活の援助を受けようと役所に申請したところ審査に不合格となってしまって、再審査を要求しようにもコンピュータでしか申請を受け付けないだの、働く意思を見せろだの、履歴書の書き方講座を受けろだの、どう考えてみても理不尽なことばかりを要求されてしまう。

こんなお役所の融通の利かなさはおそらく万国共通で、これが日本だったら怒った奴が役所に乗り込んで行って火でも付けかねないところだ。ところがダニエル・ブレイクは、ニューカッスルの人の気質とでも云うのか、心のうちに批判精神を保ちながらも、役所からの無理難題も投げやりにならずにタフにこなして行く。この真摯な姿を見て、イングランドのプレミアリーグ好きの私としては、ニューカッスル・ユナイテッドのホーム、セント・ジェームズ・パークに詰めかけるサポーターの人たちを連想してしまった。熱く、タフに、忠実に応援しながらも、チームへの批判精神をも忘れない彼ら。ダニエル・ブレイクと重なってしまう。

この映画の中に貧しい人たちに食料を提供する「フードバンク」が登場するが、日本でも初めて「フードバンク」が設立されたらしい。ダニエル・ブレイクが手助けをするシングルマザーのケイティは、空腹のあまり「フードバンク」の中で立ったまま缶詰めを貪り食ってしまって、自分の情けなさに号泣してしまう。人としての「尊厳」が失われた、とても切なくて、苦しくて、哀しいシーンだった。何となく、いろいろな面で、イングランドを追いかけているように見える日本でも、このような貧しいシングルマザーが増えているような気がする。一部の金もうけの上手い人たちだけが優遇される社会を変えるにはどうすればいいんだろう。ケン・ローチの映画を観るといつもそれをおもう。

→ケン・ローチ→デイヴ・ジョーンズ→イギリス、フランス、ベルギー/2016→新宿武蔵野館→★★★★

監督:キム・ソンス
出演:ファン・ジョンミン、チョン・ウソン、チュ・ジフン、クァク・ドウォン、チョン・マンシク、キム・ヘゴン、キム・ジョンス、ユン・ジヘ、ユン・ジェムン、キム・ウォネ
原題:아수라
制作:韓国/2016
URL:http://asura-themovie.jp
場所:新宿武蔵野館

ナ・ホンジン監督の傍若無人な映画に呆気に取られていたら、韓国映画はそれだけにとどまらなかった。キム・ソンスの『アシュラ』もどこかタランティーノを感じつつも、そこまでスタイリッシュに落とし込まない武骨なバイオレンスのやりたい放題に呆気に取られてしまった。それに、映画の冒頭にかぶさる「人間は嫌いだ」のナレーションが示すように、北野武の『アウトレイジ』よろしく登場人物の全員が悪人であるうえに、日本人よりも顕著に見られるストレートな感情の爆発がさらに嫌悪感を増幅させて、そのたたみかけるような人間の嫌らしさがかえって痛快でもあった。

刑事を辞めて悪徳政治家の下で働こうとしているチョン・ウソンが、不治の病で死のうとしている妻からも「悪人」と云われながらも、どこか「善人」が見え隠れする気弱さがまるで自分とオーバーラップしてしまって身につまされてしまう。おそらく、そんな中途半端な奴が極悪人よりも一番たちが悪い。

若い男女のラブストーリーばかりの日本映画から見ると、このようなアグレッシブな映画が出てくる韓国映画界には嫉妬を感じるけど、だからと云って現在の日本映画が韓国映画よりも劣ると云う主張にはくみすることができない。日本映画界のほうが何だかんだと云ってもまだまだバラエティに富んでいるとはおもうけど。

→キム・ソンス→ファン・ジョンミン→韓国/2016→新宿武蔵野館→★★★☆

監督:神山健治
声:高畑充希、満島真之介、古田新太、釘宮理恵、高木渉、前野朋哉、前野朋哉、高橋英樹、江口洋介
制作:「ひるね姫」製作委員会/2017
URL:http://wwws.warnerbros.co.jp/hirunehime/
場所:109シネマズ菖蒲

TVアニメの『攻殻機動隊 S.A.C.』シリーズが気に入ってから神山健治を追いかけているけど、前作の『009 RE:CYBORG』はその『攻殻機動隊 S.A.C.』シリーズを模倣しただけの内容にちょっとがっかりしてしまった。『東のエデン』では『攻殻機動隊 S.A.C.』シリーズに囚われつつも違った角度から切り込んでいたところが充分に楽しめたのに、まったくの焼き直しを見せられているようで、うーん、『009 RE:CYBORG』のシリーズを作る意味があったのかな、ともおもってしまった。

そんな残念な気持ち(を持った人は複数いたとおもう)が伝わったのか、今回は趣向を変えて女子高校生を主人公に持ってきた。雰囲気としては細田守の『サマーウォーズ』みたいな感じ。となると、今度はその細田守の映画とか、あの大ヒット映画『君の名は。』と比較してしまうことになる。うーん、それら大ヒット映画はやっぱりそれぞれのキャラクターが立っていたよなあ。キャラクターに魅力があるからこそヒットしたわけで。残念ながら『ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜』のキャラクターはどれもいまひとつだった。特に、ストーリーのキーとなる犬のぬいぐるみの「ジョイ」のキャラクターがパッとしない。そこ、一番重要なところなのに。いま、ブームとなっているTVアニメ「けものフレンズ」の「ラッキービースト(ボス)」と比べても、ああ、残念だ。

→神山健治→(声)高畑充希→「ひるね姫」製作委員会/2017→109シネマズ菖蒲→★★★

監督:パブロ・ラライン
出演:ナタリー・ポートマン、グレタ・ガーウィグ、ピーター・サースガード、マックス・カセラ、ベス・グラント、ジョン・ハート、ビリー・クラダップ
原題:Jackie
制作:アメリカ、チリ/2016
URL:http://jackie-movie.jp
場所:ユナイテッド・シネマ浦和

ジョン・F・ケネディの夫人であるジャクリーン・ケネディは、夫が暗殺された直後(1963年11月29日)にライフ誌のセオドア・ホワイトからインタビューを受けていた。パブロ・ラライン監督の『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』はそのインタビューを中心に据えて、そこから過去を回想する形式にしていた。ただ、その過去の回想は主に次の点だけに絞っていた。

・ホワイトハウスを紹介するテレビ番組『A Tour of the White House with Mrs. John F. Kennedy』(1962年2月14日放送)の制作過程。

・ホワイトハウスの中でジョン・F・ケネディはミュージカルの「キャメロット」のレコードを聞いていた。

・暗殺から葬儀の段取り、ホワイトハウスを辞去するまで。

ダニー・ボイルの『スティーブ・ジョブズ』もスティーブ・ジョブズを描くのに、1984年の「Macintosh」プレゼンテーション開始直前、 1988年の「NeXTcube」プレゼンテーション開始直前、 1998年の「iMac」プレゼンテーション開始直前の3点のみに絞っていた。その人の人生をかいま見るときに、ある時期のみにスポットライトを当てて、そこでの内面的葛藤を描くことによってその人の正体をあきらかにする方法は、2時間弱で伝記映画を作るのに一つの正解だとおもう。

『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』も主に上記の3点を描くことによって、ジャクリーン・ケネディのジョン・F・ケネディに対する想いが徐々に浮き彫りになって行く方法を取っていた。ケネディの女性関係など下世話な話題も盛り込みたいところだろうけど、そこはきっぱりと二人の、表面的な関係であったにせよ、良好な関係にテーマを絞っていたところも清々しかった。ジャクリーン・ケネディがライフ誌のインタビュワーに「私の書いて欲しい話題だけしてもらう」と云っていることが、つまり、この映画のことも代弁していたようにおもう。

→パブロ・ラライン→ナタリー・ポートマン→アメリカ、チリ/2016→ユナイテッド・シネマ浦和→★★★☆

監督:フレデリック・ワイズマン
出演:
原題:Sinai Field Mission
制作:アメリカ/1978
URL:
場所:シネマヴェーラ渋谷

毎年必ずシネマヴェーラ渋谷でフレデリック・ワイズマンがかかるので、空いた時間に少なくとも1本は観ようとおもってる。今年はうまいこと都合の取れた『シナイ半島監視団』。

1970年代の後半、エジプトのサダト大統領が対イスラエル強硬路線を転換してアメリカに急接近したとは云え、エジプトとイスラエルの間に横たわる緩衝地帯ではまだまだ緊張関係が続いているんじゃないかとおもっていた。そこのピリピリした雰囲気がフレデリック・ワイズマンのフィルムに収められているんじゃないかと勝手に想像していた。

ところがまったく違っていた。

そこで起こる問題と云えば、手続きの順番が違うだろう、とか、国連に協力しているガーナ軍のやつらが食堂で食い散らかしている、とか、エジプトからイスラエルへの移動の手続きが複雑過ぎる、とか。

そして、ところどころに挿入されるヤンキーたちのリクリエーションは、ロバート・アルトマンの『M★A★S★H』とまでは行かないまでも、さらに脱力感を感じさせるイメージショットだった。その後のイラクやシリアの事を考えれば、なんと牧歌的な時代だったことか。

→フレデリック・ワイズマン→→アメリカ/1978→シネマヴェーラ渋谷→★★★☆

監督:ナ・ホンジン
出演:クァク・ドウォン、ファン・ジョンミン、國村隼、チョン・ウヒ、キム・ファンヒ
原題:곡성(哭聲)
制作:韓国/2016
URL:http://kokuson.com
場所:楽天地シネマ錦糸町

ナ・ホンジン監督の第1作目の『チェイサー』は、画面から溢れるパワーには脱帽したけど、全体的なストーリーの運びにもたついた感じがあって、見ている間中たえず苛ついていたような感想しかなかった。

ところが次作の『哀しき獣』はめちゃくちゃ凄かった。捕まらないし、殺しすぎだし、死ななさすぎだし、物事が錯綜しすぎだし。やっていることはもしかすると『チェイサー』と同じなのかもしれないけれど、徹底的に押し切るパワーが尋常ではなかった。おもわず笑ってしまうほどだった。

今回の『哭声/コクソン』も、これもまたあっけに取られてしまった。この映画は、い、いったいなんなんだ? ゾンビ映画のようでもあるし、エクソシストのようでもあるし、ヴァンパイアのような「種族」の映画のようにも見えるし。

この映画の面白さは、山に住む日本人(國村隼)と、うろつく女(チョン・ウヒ)と、祈祷師(ファン・ジョンミン)をどのように捉えるかによって映画のイメージががらりと変わってしまうところにあった。でも、それぞれの人物の役割がいったいどのようなものなのかを判断することがとても難しい。そこが魅力的でもあった。はたして「悪霊」はいったい誰なのか。「善」と「悪」はどこにあるのか。ナ・ホンジン監督はこの映画のことについて「混沌や混乱、疑惑について描いています」と語っていた。だから、単純に正解を導き出すべき映画ではなくて、ああじゃないか、こうじゃないかと混乱すること自体が正解なんだとおもう。そして、そのあなたの勝手な思い込みは間違っていて、それが事態を「悪」へと導いているですよ、と云っているような映画だった。

→ナ・ホンジン→クァク・ドウォン→韓国/2016→楽天地シネマ錦糸町→★★★☆

監督:エドワード・ヤン
出演:張震(チャン・チェン)、楊静恰(リサ・ヤン)、張國柱(チャン・クォチュー)、金燕玲(エイレン・チン)、張翰(チャン・ハン)、美秀瓊(チェン・シャンチー)、王啓讃(ワン・チーザン)、柯宇綸(クー・ユールン)、林鴻銘(リン・ホンミン)、譚至剛(タン・チーガン)
原題:牯嶺街少年殺人事件
制作:台湾/1991
URL:http://www.bitters.co.jp/abrightersummerday/
場所:角川シネマ有楽町

ビデオの発売元だったヒーロー・コミュニケーションズが倒産して、その権利が特殊な会社に渡ってしまったことから長いこと日の目の見ることのなかったエドワード・ヤン監督の『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人 事件』が、どんないきさつで公開できるようになったのか良くわからないのだけれど、やっと映画館で観ることが可能になった。それも4Kレストア版で。

『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人 事件』と云えば、新宿TSUTAYAにある2巻もののVHSテープでしか見たことがなくて、それも多くの人が見たテープのために同期がところどころ飛んでいて、画質もやけに暗くて、ひどい状態での観賞しか見る手だてがなかった。それがいきなりの大画面、4Kレストア版での観賞で、もう、それだけで感激してしまって、4時間の長尺があっと云う間だった。

そんな感動している人間の傍らでは、グーグー寝てる人もいた。それも、わからないでもない。エドワード・ヤン監督の映画は、物事が起きたあとの結果の描写を省略する場合があるので、そこを読み解くことを怠れば簡単にストーリーから置き去りにされてしまう。それに『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人 事件』は引き(遠景)での描写が多いので、画面の暗さも相まって誰が誰だかよくわからない。中国名も、愛称と実際の名前の両方が出てきて、さらに混乱に拍車がかかる。

まあ、そのような描写の省略を自分なりに想像して埋めて行かなければならないところもエドワード・ヤン監督の映画の魅力なんだけど、丁寧な描写のドラマに浸りきった人であれば、そこを魅力とおもう人は少ないのかもしれない。いろんな手だての映画を数多く見て来ればありきたりな手法に飽きて来て、このようなエドワード・ヤンの手法こそがゾクゾクするもんなんだけどなあ。

今回、『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人 事件』を観直して気が付いたことは、小明、シャオミン(楊静恰、リサ・ヤン)の表情をクローズアップなどで捉えることが少ないので、自分から「誰でも私のことを好きになるんだわ」と云い切ってしまう小明の小悪魔姓が微妙にボンヤリしているところがリアリティさを増していてなんとも怖いところだとおもってたけど、若い医者を目の前にして、傍らにあった医者の帽子をひょこんと被って可愛らしさをアピールするところなんて、いやあ、そのものずばり小悪魔を見せつけていた。どっちにしたって、怖い、怖い。

→エドワード・ヤン→張震(チャン・チェン)→台湾/1991→角川シネマ有楽町→★★★★

監督:マノエル・デ・オリヴェイラ
出演:ルイス・ミゲル・シントラ、ディオゴ・ドリア、ミゲル・ギレルメ、ルイス・リュカ、ローラ・フォルネル、レオノール・シルベイラ
原題:’Non’, ou A Vã Glória de Mandar
制作:ポルトガル、スペイン、フランス/1990
URL:
場所:アテネ・フランセ文化センター

2015年に106歳で亡くなったポルトガルのマノエル・ド・オリヴェイラ監督のアテネ・フランセ文化センターでの追悼特集にやっと行くことができた。

マノエル・ド・オリヴェイラが1990年に撮った『ノン、あるいは支配の空しい栄光』は、アフリカにあるポルトガルの植民地(雰囲気として島国には見えないからアンゴラかモザンビークと云う設定か?)に派遣されたポルトガルの兵士の中に歴史の詳しい人物がいて、主にその彼によるポルトガルの戦争の歴史についての講釈によってストーリーが進行して行く。

以下、この映画で語られたポルトガルの歴史。

・紀元前2世紀、ローマ帝国軍は「ルシタニア」と呼ばれていた現在のポルトガルを侵略するが、この地の族長であったヴィリアトを中心としたルシタニア人たちに激しく抵抗に遭う。力では勝てないと考えたローマ軍はヴィリアトの部下を買収し彼を暗殺させる。

・1143年、アフォンソ1世を創始者とするブルゴーニュ(ボルゴーニャ)王朝ポルトガル王国が創始される。

・15世紀後半、カスティーリャ(今のスペイン中部を占める王国)の王位継承者の娘であるフアナ・ラ・ベルトラネーハと共謀したアフォンソ5世はカスティーリャのイサベル1世を支持する軍と戦い1476年3月にトロの戦いで敗れる。

・1490年4月、ジョアン2世(アフォンソ5世の子)は息子アフォンソ王子とカスティーリャのイサベラ王女を政略結婚させる。しかし8月、王子が落馬して死去したためイベリア半島の平和的統一の夢は潰える。

・ポルトガルは植民地主義へ向かい、海洋帝国を目指す。ヴァスコ・ダ・ガマはインド航路を確立し、新世界への道を開いた。

・1578年、セバスチャン王はモロッコ遠征を強行し、アルカセル・キビルで壊滅的な敗北を喫する。国王も戦死し、ポルトガルの歴史上、最大のダメージを被る。

以上、このような歴史が、ちょっとチープな寸劇で挿入される。このチープさはなんなんだろう? 戦争の歴史がまるっきり馬鹿らしく見えてくる。

ペドロ・コスタの『ホース・マネー』でポルトガルの近代史を勉強させてもらったけど、マノエル・ド・オリヴェイラの『ノン、あるいは支配の空しい栄光』ではさらにポルトガルの負の歴史を勉強させてもらった。ポルトガルって、日本人にとってはちょっと中途半端なイメージがあるけど、国の歴史としては奥深いところがあって面白すぎる。

→マノエル・デ・オリベイラ→ルイス・ミゲル・シントラ→ポルトガル、スペイン、フランス/1990→アテネ・フランセ文化センター→★★★