監督:ダーレン・アロノフスキー
出演:ブレンダン・フレイザー、セイディー・シンク、ホン・チャウ、サマンサ・モートン、タイ・シンプキンス、サティア・スリードハラン
原題:The Whale
制作:アメリカ/2022
URL:https://whale-movie.jp
場所:ユナイテッド・シネマ浦和

サミュエル・D・ハンターが2012年に発表した同名舞台劇を『レスラー』『ブラック・スワン』のダーレン・アロノフスキーが映画化。体重が600ポンド(約272キロ)にもなってしまった男の最後の一週間を描いている。

舞台劇の映画化は場所が限定されるので、ドラマがその狭い範囲に凝縮されるのが大好きで、例えばエリア・カザンの『欲望という名の電車』(テネシー・ウィリアムズ作、1951)とか、ウィリアム・ワイラーの『噂の二人』(リリアン・ヘルマン作、1961)とか、ジーン・サックスの『おかしな二人』(ニール・サイモン作、1968)とか、好きな映画を数え上げたらきりがない。だから、この映画も好きなタイプの映画のであることに間違いはなかった。

ただ、重度の肥満症からまったく動けなくなってしまった主人公の、医療も拒否した破滅的な生活は気持ちの良いものではなくて、場所がほとんどソファーの上だけってのもかえって閉所恐怖症ぎみの自分にとってはちょっと辛かった。

舞台劇の映画化なので登場人物は6人だけ。国語の教師で肥満症のチャーリー(ブレンダン・フレイザー)、チャーリーと疎遠になっていた娘エリー(セイディー・シンク)、チャーリーの唯一の友人である看護師のリズ(ホン・チャウ)、チャーリーの元妻でありエリーの母であるメアリー(サマンサ・モートン)、ニューライフ教会の宣教師トーマス(タイ・シンプキンス)、ビザの配達人ダン(サティア・スリードハラン)。

ストーリーはおもに主人公チャーリーと娘エリーとの関係修復にあてられている。そこに看護師リズとチャーリーとの関係、そしてリズの兄アランとチャーリーとの関係が次第に明らかになって行き、単にドラマに膨らみを持たせるためだけの添え物とおもえた宣教師トーマスに関しても彼らとの繋がりが明らかになって行く。家族や友人(恋人)関係だけが題材とおもわれたこの映画が、いつのまにか宗教と云うものの在り方にまで踏み込んで行く流れは、おそらくは原作の戯曲の素晴らしさなんだろうけれど、とても巧かった。

この映画を観はじめて、題名に使われている「ホエール(鯨)」とはなんだろう? と考えていた。まず目が行くのはチャーリーの肥満からくるイメージだけれども、映画の冒頭に彼が心臓発作に陥ったときに心拍を落ち着かせるために読むメルビルの「白鯨」に関するエッセイも関係していることがわかる。

この誰が書いたかわからない「白鯨」に関するエッセイは、メルビルの「白鯨」は悲しい物語だと云う。なかでも一番悲しい部分は、クジラを描写するだけの退屈な章から、実際に不幸な作家人生を送ったメルビルによるわずかな救いの手を感じ取ったからだと云う。

映画のなかに何度も登場するこのエッセイが、このストーリーの鍵となっているのは間違いない。でもそれが何なのかは判断が難しい。おそらくは、この映画のもうひとつの鍵であるニューライフ教会をおだやかに批判していると云うことなのかもしれない。人間に対する救いなんてものは、あからさまに、大仰になされるものではなくて、平凡なものから感じ取るべきものなんだと云っているようにも見える。

そして、このストーリーの一番の軸であるチャーリーと娘エリーとの関係。8歳のときからまったく会えていない娘は、父親に対する敵意がむき出しで、自分の感情をうまくコントロールできない人間に育っていた。傍から見れば、それは片親だけによる子育の失敗から出来上がった娘だった。でもそんな娘をチャーリーは元妻に対して素晴らしい娘に育て上げてくれたと絶賛する。チャーリーにとって、久しぶりに会えたからと云って本心を隠して当たり障りのない会話をする親子関係よりも、ストレートに思いの丈をぶつける親子関係こそが理想だったのかもしれない。

そんな直球なエリーだから、ひょんなことから訪ねてきた宣教師トーマスに対しても、ニューライフ教会をボロクソにこきおろす。神を信じることなんて人々の救いにはまったくならないと。

この映画には救われなければならない人間ばかりが登場する。その全員がニューライフ教会との関わりがあることがわかってくる。でも宗教は誰も救わない。とくにチャーリーは、その宗教によって恋愛関係にあった看護師リズの兄アランを自殺で亡くしてしまう。心のバランスを崩した彼は体重が600ポンド(約272キロ)にまでなり、医療も拒否して死を待つのみとなってしまった。ただ、唯一の救いを感じたのが「白鯨」のエッセイだった。

では「白鯨」のエッセイを書いたのは誰なのか?

それは娘のエリーだった。元妻によって交流を遮断されていたチャーリーは、ひとつだけ、エリーの書いた「白鯨」のエッセイを送ってもらっていたのだった。そこに書かれていた内容も去ることながら、自分が娘とつながるたった一つの拠り所だった。映画のラストは、エリー自身による「白鯨」のエッセイの朗読だった。それでもってチャーリーは救われ、と同時に画面は光り輝き、彼は死とともに昇華する。

この映画はどんな終わり方をするんだろうとおもっていたけれど、とても納得の行く終わり方だった。

→ダーレン・アロノフスキー→ブレンダン・フレイザー→アメリカ/2022→ユナイテッド・シネマ浦和→★★★★

監督:ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ
出演:パブロ・シルズ、ジョエリー・ムブンドゥ、アルバン・ウカイ、ティヒメン・フーファールツ、シャルロット・デ・ブライネ、ナデージュ・エドラオゴ、マルク・ジンガ
原題:Tori et Lokita
制作:ベルギー、フランス/2022
URL:https://bitters.co.jp/tori_lokita/
場所:新宿武蔵野館

ダルデンヌ兄弟の新作は、ベルギーにやってきたベナン出身のトリとカメルーン出身のロキタのはなし。ふたりはアフリカからベルギーへたどり着く途中で出会い、本当の姉妹のように助け合って生活を送っている。生活の基盤を得るためにしっかりとした仕事に就きたいロキタは、すでにビザが発行されているトリの姉と偽ってビザを取得しようとしていた。でも、この偽りの気持が次第に負の連鎖を産み、いつしか取り返しのつかない事態へと落ち込んでいく。

日本は移民に対して厳しい国だと云われる。確かに酷いとおもう。欧米のようにもうちょっと寛大になればい良いとおもうときもある。でも、フランス映画などで描かれる移民の生活ぶりを見ると、彼らの困窮ぶりが犯罪の温床になってしまっている。日本も間口を広げれば必ずと云ってその問題にぶちあたる。日本の人口が減少に転じるにつれ、受け入れざるを得ない移民のことをおもうと、このトリとロキタのストーリーは日本の将来に起こる出来事として捉えても何の問題もなかった。

いつもおもうことだけれど、ダルデンヌ兄弟の視線はシビアだ。そこまで強烈な展開を用意しなくても良いのに。映画を観終わって、肩を落としながら映画館を去った。

→ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ→パブロ・シルズ→ベルギー、フランス/2022→新宿武蔵野館→★★★★

監督:庵野秀明
出演:池松壮亮、浜辺美波、柄本佑、塚本晋也、手塚とおる、長澤まさみ、西野七瀬、本郷奏多、市川実日子、松尾スズキ、森山未來
制作:「シン・仮面ライダー」製作委員会/2023
URL:https://www.shin-kamen-rider.jp
場所:109シネマズ木場

庵野秀明が選んだ次のテーマは「仮面ライダー」。自分にとっても「仮面ライダー」の1号、2号、V3まではリアルタイムで見ていたので、またまた庵野の手のひらの上で転がされてしまうのかな、まあそれもそれで楽しいな、とおもいながら観に行った。

そこで、ふと、子供のころ「仮面ライダー」のどこに魅力を感じたんだろうかと振り返ってみる。でも「ウルトラセブン」のようにすぐにはおもい当たらなかった。「仮面ライダースナック」の「ライダーカード」が欲しくて、カードだけを取ってスナックは捨ててしまうと云う、当時の社会問題にまで発展したようなこともご多分に漏れずやっていたのだけれど、それは「仮面ライダー」の魅力にはまっていたと云うよりも「ラッキーカード」と呼ばれるレアカード欲しさに買っていたような気もする。だからそんなに「仮面ライダー」への愛着は薄いのかもしれない。

そんな昔の「仮面ライダー」に対してあまり執着の無い人間が『シン・仮面ライダー』を観たら、とても貧弱で、せせこましいイメージを持ってしまった。狭い範囲でとてつもなく大きなことが成されているようで、そこに違和感を持ってしまった。いや、それは原作に忠実なんだよ、ファンに対して「仮面ライダー」のイメージを壊さないように作っているんだよ、って云われればそうなのかもしれない。でもそれを映画として一般に公開するのはどうなんだろう? っておもってしまった。もうちょっとファンでない人に対しても開かれなければならないんじゃないか、とはおもう。まあ、開いたら開いたで「仮面ライダー」ファンは怒るのだろうけれど。難しい題材だ。

→庵野秀明→池松壮亮→「シン・仮面ライダー」製作委員会/2023→109シネマズ木場→★★★

監督:松本優作
出演:東出昌大、三浦貴大、皆川猿時、和田正人、木竜麻生、池田大、金子大地、阿部進之介、渋川清彦、田村泰二郎、渡辺いっけい、吉田羊、吹越満、吉岡秀隆、阿曽山大噴火
制作:映画「Winny」製作委員会/2023
URL:https://winny-movie.com
場所:ユナイテッド・シネマ浦和

2000年代に入ってから個人のパソコンの多くがインターネットへ常時接続できるようになりはじめた。それは一般のアナログ電話回線を流用したブロードバンドインターネット接続サービス「ADSL」の普及が大きな後押しとなって、さらに光ファイバー網を利用した高速の「光回線」の普及がさらに輪をかけることになった。そんな中で登場したのがファイル共有ソフト「Winny」だった。「Winny」を使えば大容量のファイル、たとえば映画まるごと1本の動画ファイルを送受信することが容易くなり、個人のコンピュータ同士を複数経由させる方法(Peer to Peer)のためにサーバー間の通信だけに負担がかかると云うこともなく、まだまだ開発途中で手直しすべきところはあったものの技術的には素晴らしいソフトだった。(と云っても「Winny」を使ったことはなかったとおもう。使ったのは似たようなファイル共有ソフト「WinMX」とか「BitTorrent」だったような)

ただ、やはり時代の先駆たるものの宿命として、既存のルールとのミスマッチが起きてしまうのは必定で、ユーザーの使い方によっては著作権のある映画などの動画ファイルをばらまくためのツールとなってしまった。その結果、2003年11月には著作権のある動画ファイルを違法に公開したとしてユーザーが逮捕され、さらに「Winny」の開発者である金子勇にまで捜査の手が伸びた。

松本優作監督の『Winny』は、金子勇宅への捜査から、逮捕、裁判に至るまでの過程を描いていた。検察側が有罪とする決め手は、金子勇が「2ちゃんねる」上で著作権違反行為を意図する者への要望に応えるために「Winny」を作ったとしている点だった。反対に弁護側は、金子勇が「2ちゃんねる」での書き込みに著作権違反行為に関する発言はまったくしてなくて、純粋に便利なツールを開発したいがために「Winny」を作ったとしている点だった。

この映画での金子勇と云う人物は、ちょっと天然ボケのある純粋な人間として、それをやたらと強調して作られていた。つまり不当逮捕であることを前提に映画が成り立っていた。実際の金子勇本人がどのような人物なのかわからないのだけれど、おそらくこの映画で描かれていたような人物だったとおもう。でも「Winny」の開発者逮捕の事件はそのような個人の問題だけではなくて、ネット時代へと突入しはじめた当時のデジタル・コミュニケーションが作り出す世界がとても重要なポイントだった。とくに金子勇が「Winny」開発のベースとした匿名掲示板「2ちゃんねる」を語らずして何を語ろう。映画『Winny』での「2ちゃんねる」は、金子勇を救うために「2ちゃんねる」有志が募金を募ったと云う美談しか登場しなかった。いやいや、そんな美談は「2ちゃんねる」には似合わない。

映画『Winny』を単純な刑事裁判映画にするよりも、当時のインターネットでのムーブメントをもう少し表現して、名無しの人たちが集う「2ちゃんねる」から如何にして「Winny」が生まれたかの部分も映画に組み込まれていたのならもっと面白かったのに。それを描くのはとてつもなく大変なのだろうけれど。

→松本優作→東出昌大→映画「Winny」製作委員会/2023→ユナイテッド・シネマ浦和→★★☆

監督:ポール・バーホーベン
出演:ビルジニー・エフィラ、シャーロット・ランプリング、ダフネ・パタキア、ランベール・ウィルソン、オリビエ・ラブルダン、ルイーズ・シュビヨット、エルベ・ピエール、クロチルド・クロ
原題:Benedetta
制作:フランス/2021
URL:https://klockworx-v.com/benedetta/
場所:新宿武蔵野館

ポール・バーホーベン監督の『ロボコップ』(1987)を最初に観たとき、今までのハリウッド映画にはない異様で過激な描写がかえって新鮮に写って、そこがこの映画を実際の出来以上に面白く感じた理由だったんじゃないかとおもう。それがハリウッド5作目の『スターシップ・トゥルーパーズ』(1997)になるとグロテスクな描写をやり過ぎてて、すっかりそのスタイルにも飽きがきてしまった。『インビジブル』(2000)を最後にハリウッドを去ったのは多くの人が同じような感想を持った結果だったのかもしれない。

ヨーロッパに活動の場を戻したポール・バーホーベン監督の映画にはまったく興味が持てなかったのだけれど、なぜか最新作の『ベネデッタ』は観てみようと食指が動いてしまった。

今回の主人公は17世紀に実在した同性愛主義で告発された修道女ベネデッタ・カルリーニ。聖痕が浮かび上がったとして信者の注⽬を集め、⺠衆の⽀持を得て修道院⻑に就任した女性をポール・バーホーベン監督が描いた。

へー、こんな史実があったのか、の興味が作品の出来を上回り、とても面白く観てしまった。映画自体はどこか70年代あたりの映画を彷彿とさせるような作りで、人物の描写方法やカメラワークなども懐かしさを感じて面白かった。そもそも性的に抑圧された修道女たちが敬虔な行動を捨てて性行為にふけるのは70年代に流行ったナンスプロイテーションのようだし、ベネデッタ役のビルジニー・エフィラが豹変して男の声で罵るシーンは『エクソシスト』にも見えるし、シャーロット・ランプリングも歳を重ねてはいるものの昔の美貌を感じさせる点も良かったし。

この映画に食指が動いたのは、ネットなどに流れてきた『ベネデッタ』のポスター等のビジュアルに昔の映画の匂いを感じたからかもしれない。その感覚は当たっていて、そう云った意味で楽しめた映画だった。

→ポール・バーホーベン→ビルジニー・エフィラ→フランス/2021→新宿武蔵野館→★★★☆

監督:リューベン・オストルンド
出演:ハリス・ディキンソン、チャールビ・ディーン、ドリー・デ・レオン、ズラッコ・ブリッチ、イーリス・ベルベン、サニーイー・ベルズ、ヘンリック・ドーシン、キャロライナ・ギリング、ヴィッキ・ベルリン、ハンナ・オルデンブルグ、オリヴァー・フォード・デイヴィーズ、アマンダ・ウォーカー、アーヴィン・カナニアン、ウディ・ハレルソン
原題:Triangle of Sadness
制作:スウェーデン、イギリス、フランス、ドイツ/2022
URL:https://gaga.ne.jp/triangle/
場所:ユナイテッド・シネマ浦和

カンヌ映画祭のパルム・ドールを取った映画はなるべく追いかけるようにしてはいるのだけれど、なぜか2017年のリューベン・オストルンド監督『ザ・スクエア 思いやりの聖域』は見逃していた。それに気づいて、先日、Amazon Primeで見てみた。これがなんとも不思議な映画で、現代美術館と云うとてもお洒落で洗練された場所にわざと人間の醜さを対比させて、映画を観ている我々を居心地悪くさせるような映画だった。とくに印象的だったのは、美術館でのトークイベントの際に観客の一人が大きな声で卑猥な言葉を連発するシーンだった。隣にいた妻が、すみません病気なんです、と理由付けはされていたのだけど、このシーンが象徴するように上品と下品とをシニカルに同居させているのがこの映画の特徴だった。

そのリューベン・オストルンド監督が新作の『逆転のトライアングル』で2022年のパルム・ドールをまた取った。今回は見逃さずに、と云ってもユナイテッド・シネマ浦和の最終日になってしまったけれど、観に行った。

『逆転のトライアングル』の原題 “Triangle of Sadness” は直訳すると「悲しみのトライアングル」。この「トライアングル」とは眉間のことで、そこにできるシワが「悲しみのトライアングル」なんだだそうだ。眉間にシワを寄せる(眉をひそめる)機会がどんなときに訪れるかと云えば、上品な場所に下品なものが現れるときによくする表情で、それはつまりリューベン・オストルンド監督が『ザ・スクエア 思いやりの聖域』から通じて示しているテーマなような気もしてしまった。この原題がそういったことを意図していたのかはわからないのだけれど、真っ先にそう判断してしまった。

『逆転のトライアングル』ではさらに、持っているものと待たざるもの、エセ資本主義とエセ社会主義、セレブと使用人などの対立軸となるようなものでも、その両方に存在する人間の醜さを同時に露呈させて、観ている我々の眉間にシワを寄せさせる映画になっていた。

でも、そんな高尚なテーマなんかクソ喰らえ、てな感じで、セレブが乗り合わせる豪華客船が嵐にあって、食事中の全員がゲロまみれになるシーンはまさにそのものズバリのストレートに眉間にシワを寄せるシーンになっているのは勇ましかった。この映画に対して眉間にシワを寄せることがあるとするのなら、それはまさにリューベン・オストルンド監督のやりたいことだった。

→リューベン・オストルンド→ハリス・ディキンソン→スウェーデン、イギリス、フランス、ドイツ/2022→ユナイテッド・シネマ浦和→★★★☆

監督:スティーヴン・スピルバーグ
出演:ガブリエル・ラベル、ミシェル・ウィリアムズ、ポール・ダノ、セス・ローゲン 、ジャド・ハーシュ、クロエ・イースト、オークス・フェグリー、ジュリア・バターズ、ジーニー・バーリン、ガブリエル・ベイトマン、グレッグ・グランバーグ、デイヴィッド・リンチ
原題:The Fabelmans
制作:アメリカ/2022
URL:https://fabelmans-film.jp
場所:109シネマズ菖蒲

自分の映画遍歴を振り返ると、そのはじまりはジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』であり、スティーヴン・スピルバーグの『未知との遭遇』だった。とりわけスティーヴン・スピルバーグは、その後に続く『1941』『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』『E.T.』と、まるでおもちゃ箱をひっくり返したような作品ばかりが続いて、いまおもい返しても映画ファンのはじまりとしては運の良い時代だった。

そのスティーヴン・スピルバーグも76歳になって、おそらくは映画人生の締めくくりも感じて、自伝的作品として『フェイブルマンズ』を撮ったのだろうとおもう。

スティーヴン・スピルバーグの実際の子供時代のはなしは、幼い頃から8ミリを撮りはじめたことがその後の彼の人生に大きな影響を及ぼしたことぐらいは何となく理解していた。でも、父親が電気技師をしていたとか、母親がコンサートピアニストだったとか、その両親が離婚したとかのプライベートなことと彼の作品とを結びつけることはまったくなかった。ところが今回の『フェイブルマンズ』を観て、驚いたことにスピルバーグが撮った映画のなかのシーンが同時に脳裏に蘇ってしまった。それは『未知との遭遇』のUFOに取り憑かれてしまうリチャード・ドレイファスだったり、『E.T.』のなぜか父親のいない家庭のシーンだったり、『A.I.』の母親から見放されるA.I.ロボットだったり。この映画は彼の人生と作られた作品とが密接に結びついていることを追体験する映画だった。

この追体験を終えた後に、またスピルバーグの作品を見返したいとおもう。絶対に新たな発見があるに違いない。

→スティーヴン・スピルバーグ→ガブリエル・ラベル→アメリカ/2022→109シネマズ菖蒲→★★★★

監督:ダニエル・クワン&ダニエル・シャイナート
出演:ミシェール・ヨー、キー・ホイ・クァン、ステファニー・スー、ジェニー・スレイト、ハリー・シャム・ジュニア、ジェームズ・ホン、ジェニー・スレイト、ジェイミー・リー・カーティス
原題:Everything Everywhere All at Once
制作:アメリカ/2022
URL:https://gaga.ne.jp/eeaao/
場所:109シネマズ木場

「マーベル・シネマティック・ユニバース」の最新作『アントマン&ワスプ:クアントマニア』は、量子世界に加えてマルチバースの概念が加わって来た。『スパイダーマン:スパイダーバース』『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』に続いてのマルチバース世界の採用で、またかよ、な感じがしないでもなかった。

マルチバース(多元宇宙論)とは、複数の宇宙の存在を仮定した理論物理学の説。宇宙が一つではないと考える理由は仮説によってさまざまで、それは単に距離による説明のものだったり、「泡宇宙モデル」だったり、「多世界解釈(エベレット解釈)」だったりと、ひとつの概念によるものではないことが調べていてわかってきた。

そんな中で「マーベル・シネマティック・ユニバース」に代表されるようなSF映画のマルチバースとは、本格的な理論をちょこっと拝借して、ストーリーに都合の良い解釈にして、派手に面白おかしく展開するための素材にすぎなかった。

ダニエル・クワン&ダニエル・シャイナート監督の『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』もまたマルチバース世界のはなしだった。でも「マーベル・シネマティック・ユニバース」の映画とは一線を画していて、もっと人の情緒に訴えるためにマルチバースの理論を使っていた。

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』でのマルチバースとは、おそらく「多世界解釈(エベレット解釈)」を採用しているようにみえる。

「多世界解釈(エベレット解釈)」とは、1957年に観測物理学者のヒュー・エレベット氏が提唱したもので、マクロな私たちの現実は異なる宇宙の重ね合わせであるという考え方。この多世界解釈の中では、私たちが一つひとつの選択を行うたびに宇宙は分岐して異なる現実が生まれるが、自分が知覚できる現実は自分の生きている現実だけ。
参考:https://ideasforgood.jp/glossary/multiverse/

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の主人公エヴリン(ミシェール・ヨー)はコインランドリーを経営する女性。IRS(アメリカ合衆国内国歳入庁)へ行って、いくらかでも経費を認めてもらおうと奮戦している。そんななか、優しいけれど頼りがいのない夫ウェイモンド(キー・ホイ・クァン)が突然変貌し、エヴリンはマルチバースへの脅威となるジョブ・トゥパキに対抗できる人物だと告げる。

そんな大それた人物であることを信じられないエヴリンは、変貌した夫ウェイモンドに付けられた装置によって、さまざまな人生の可能性を見せられる。彼女の人生のときどきの選択によって大女優になっていたかもしれないし、パフォーマンスをする料理人だったかもしれないし、京劇の役者だったかもしれないし、ソーセージ指の世界の住人であったかもしれない(これだけは人生の選択とは違うような?)。これはまさしく「多世界解釈(エベレット解釈)」に見える。

でも、マルチバース間を移動することはできないと(現在のところは)考えられているので、そのあたりの描写はだいぶコミカルにしている。移動をするためには、誰もが想像だにしない行動をしろ、なんてちょっとドタバタコメディにしている。まあ、あんまり笑えなかったけれど。
参考:https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD10CIA0Q2A510C2000000/

ちょっと長すぎる映画ではあったけれど、エヴリンの人生の選択において、IRSへの対応はこれで良いのかと云う些細な選択から始まって、彼女にとってのもっと大きな選択、この夫で良かったのか、娘への対応は間違っていなかったのか、にまで大きく広げて、でもすべての可能性を重ね合わせて存在している今の自分が最高なのだと、最高のヒーローなのだと帰結させる流れは観ていて清々しかった。

いまの過度な、強迫的とも云える多様性の流れを受けて、今回は中国系の年としてアカデミー賞をいろいろと取りそうだけれど、そんな馬鹿げた評価を抜かしても良い映画だった。

→ダニエル・クワン&ダニエル・シャイナート→ミシェール・ヨー→アメリカ/2022→109シネマズ木場→★★★★

監督:ペイトン・リード
出演:ポール・ラッド(木内秀信)、エヴァンジェリン・リリー(内田有紀)、ジョナサン・メジャース(中村和正)、キャスリン・ニュートン(高橋李依)、デヴィッド・ダストマルチャン(山口勝平)、ケイティ・オブライアン(冠野智美)、ウィリアム・ジャクソン・ハーパー(北田理道)、ビル・マーレイ( 江原正士)、ミシェル・ファイファー(高島雅羅)、コリー・ストール(山野井仁)、マイケル・ダグラス(御友公喜)
原題:Ant-Man and the Wasp: Quantumania
制作:アメリカ/2023
URL:https://marvel.disney.co.jp/movie/antman-wasp-qm
場所:109シネマズ菖蒲

「マーベル・シネマティック・ユニバース」の中の「アントマン」の立ち位置って、他のマーベルヒーローに比べるといささか特殊で、ちょっとコミカルな立ち回りを受け持っている存在だったとおもう。それは、強大な存在がちっちゃなものに成り果てたり、ゴミみたいなものが無敵になったりと、逆転することによって生まれる典型的な「笑い」が象徴している。でも、前作の『アントマン&ワスプ』では量子世界がクローズアップされて「笑い」の入る余地が少なくなってしまった。そして今回の『アントマン&ワスプ:クアントマニア』ではマルチバースの世界も加わったのでさらに笑えなくなってしまった。映画のオープニングとクロージングでスコットがカフェに行くコミカルなシーンは、まるで取って付けたようでまるっきり浮いてしまっている。これでは他の「マーベル・シネマティック・ユニバース」の映画と差別化が出来ないんじゃないのかなあ。

ひとつ大きな疑問なんだけど、量子世界に生物がいるものなんだろうか? 素粒子とか原子とか分子だけの世界だとおもっていた。

→ペイトン・リード→オリヴィア・コールマン→イギリス、アメリカ/2022→109シネマズ菖蒲→★★☆

監督:サム・メンデス
出演:オリヴィア・コールマン、マイケル・ウォード、コリン・ファース、トビー・ジョーンズ、ターニャ・ムーディ、トム・ブルック、クリスタル・クラーク
原題:Empire of Light
制作:イギリス、アメリカ/2022
URL:https://www.searchlightpictures.jp/movies/empireoflight
場所:ユナイテッド・シネマ浦和

最近では007の映画や第1次世界大戦を舞台にした『1917』など大資本の映画ばかりを撮っていたサム・メンデス監督が『アメリカン・ビューティー』や『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』のようなこじんまりとした人間ドラマに戻ってきた。サム・メンデスにはこのような地味な映画にこそ上手さを発揮する余地があるとはおもうのだけれど、シネコンの映画としてはあまりにも話題性が欠けていた。ユナイテッド・シネマ浦和での平日18時20分の回では、自分を含めて2人しか観客がいなかった。

今回の『エンパイア・オブ・ライト』は、サッチャリズムによって第二次世界大戦以降最悪の失業率を記録していた1980年代初頭、イギリス南東部の海辺の町マーゲイトにある映画館「エンパイア劇場」でのおはなし。

「エンパイア劇場」の統括支配人をしているヒラリー(オリヴィア・コールマン)が開場を準備しているシーンから映画ははじまる。カメラが彼女を追っていくにつれて、この人物に対する違和感が少しづつ増して行って、しだいに彼女が統合失調症を病んでいたことがわかってくる。そしてそこに、新しい映画館のスタッフとして若い黒人のスティーヴン(マイケル・ウォード)がやってくる。この映画は基本的にこの歳の差のある二人の男女が次第に惹かれ合う過程を描いていた。

統合失調症を病むということがどんなものか想像すら出来ないのだけれど、はにかむような不思議な笑顔をするオリヴィア・コールマンを見ただけで、その病気の苦しさが充分に伝わってくる演技は凄かった。そして「エンパイア劇場」で行われた『炎のランナー』のプレミア上映で、いきなりオーナーのコリン・ファースの次に壇上に立ってスピーチをしてしまうオリヴィア・コールマンの何をしでかすかわからない恐ろしさ! 静かな演技ながらも観るものに恐怖を覚えさせる素晴らしさだった。

1980年代初頭のイギリスと云う時代背景も面白かった。女性が首相なのにまだまだ女性たちの地位が向上していない時代で、失業した若い白人たちの怒りの矛先が移民たちへと向けられた殺伐とした時代でもあった。そんななかで病気を抱えながら生き抜いている中年女性と、レイシズムに耐えながら働く若い黒人と云う組み合わせの、すべてにおいて世間からは容認されざる関係の行く末を絶望的に案じながらも、昔ながらの古い映画館と云う長年人々に現実逃避を提供してきた舞台を用意したことで、どこかファンタジーめいた色合いがあるのも面白かった。

この『エンパイア・オブ・ライト』は映画館が舞台なので、もちろん映画に関する固有名詞はたくさん出てくるし、映画ポスターやスチル写真も数多く出てくる。でも、映画のシーンそのものが登場するのはアーサー・ヒラー『大陸横断超特急』(1976)とハル・アシュビー『チャンス』(1979)だけだった。どちらも大好きな映画なので、その2つをピックアップして使うサム・メンデスと自分との相性の良さも再確認してしまった。

そして、詩と云うものにまったく疎いのだけれども、大学へ行くために去っていくスティーヴン(マイケル・ウォード)に対してヒラリー(オリヴィア・コールマン)が捧げるフィリップ・ラーキンの詩「The Trees」が素晴らしかった。これは彼女自身へのエールでもあった。

https://poetryarchive.org/poem/trees/

最後の、

Begin afresh, afresh, afresh.

が突き刺さる。

→サム・メンデス→オリヴィア・コールマン→イギリス、アメリカ/2022→ユナイテッド・シネマ浦和→★★★★