メントール・ユーカリプト片岡義男詩集
片岡義男詩集

  目次



 いまはコーヒーを淹れたばかり

偶然の惑星で
いまここでこうしている事実
なんの因果関係もなく
かならずそうなると決まっていること
それ以外になりようのない
フリーズドライの九条ねぎ
チェリー・トマトのオイル漬け缶詰
偶然の奥行き
偶然の意味の深さ
だったかもしれないという
分かれ道、右と左、0と1
どちらも完璧に対等
しかしどれひとつとして
おなじではない
すべては
偶然の出来事の重なり合い
テーブルに向かって椅子にすわり
目を閉じてみる
雨の一日ひとりこうして
部屋で過ごす
日常の風景
さきほどは目玉焼きをふたつ食べた
いまはコーヒーを淹れたばかり
そのコーヒーと受け皿に小さなスプーン
スプーンを指先に持ち
コーヒーをすくってみる
そして唇へ運ぶ
カップのなかのコーヒーと
スプーンのなかのコーヒー
なくてはならないもの
効果的な媒体としての水
夕方のTVの気象ニュース
列島を斜めに横切った台風の被害
テーブルは窓に面している
窓の外にあるのは
台風を遠く引きずる雨
過ぎ去った時間の
効果的な使いかた
部屋のドアは開いている
水平線のある部屋
午後の謎は深まる
目を閉じてみる
水に入ろうとする光の屈折
風の吹く空に向けて
帰っていく森
単に呼吸するだけではなく
口移しで教わった
ふたりの秘められたなにか
しみじみとしじみ汁
期待に満ちた夕暮れ
呼吸している言葉
一輪挿しの赤い花
脈絡のない言葉を集める
手応えという幸せ
ふたりで探しにいくはずだった
ハッピーエンドの色。






 A4の紙に一枚だけの心

 1

もの思いに沈む
ふたつの目玉焼き
故郷を持たない
遠い町の雲
今日もなにかを
買うとしたら
秋の日のため息と
白い昼月の淡い微笑
そしてついでに
暮れていく空の階調。

 2

にわか雨が降る
階段を降りる
歩道橋を渡る
パン屋に立ち寄る
美術館まで歩く
坂道の途中で思い出した
あのときの彼女の
唇の赤い色
単なる終止符のように
それはなにごとも嘆かない。

 3

なにかを物語るはずの
なに色かの一輪の花
過ぎ去った優しい夕暮れ
冷蔵庫を開けてみる
アンチョヴィーの瓶詰がさまよう
月の夜は更けていく
心あたりはなにひとつなく
物憂い夢のように思い出すのは
遠い雷鳴と赤い靴
そして雨に濡れた美しい流星。





 ぼくのマザー・グース


  ドーナツ

ドーナツがドーナツの穴から
こっちを見てるよ
ウインクしてやったら
ドーナツもウインクしてよこしたね
まんなかから、パカン、とふたつに
体を折って。


  おへそパン

あたたかいおへそパン!
あたたかいおへそパン!
ひとつ十円、ふたつも十円
あたたかいおへそパン!
お嬢さんがお好きでなければ
息子さんにあげてください
お嬢さんも息子さんもいらっしゃらなければ
ご自分でめしあがるほかないようね。


  樹のうえの赤ちゃん

緑の葉をいっぱいにつけた
大きな樹のうえに
赤ちゃんがいました
強い風が吹いてきて枝がゆれ
赤ちゃんは下へ落ちていきました
あっ! かわいそう!
と、心のなかで叫んだその樹は
自分の葉をいっぺんに枯葉にして散らし
下に落ちてぺしゃんこになった赤ちゃんのうえに
とってもやさしくかけてあげました


  馬

馬が走るパカパカ
誰も乗っていない
馬が走るボコボコ
穴のあいた人が乗っている
馬が走るペコペコ
お腹のすいた人が乗っている
馬が走るブカブカ
大きすぎるパンツの人が乗っている。


  男はつらいよ

田中一郎
月曜に生まれ
火曜に就職
水曜に結婚
木曜に病気
金曜に悪化
土曜に死んで
日曜に埋葬
これで終りじゃ
田中の一郎


  古い靴の家

大きな古い靴に住んでいたその女の人には
子供がとてもたくさんいました
いったいどうしていいかわからないほど
たくさんたくさんの子供たちでした
ある日、彼女は、その子供たちをひとまとめに野原に立たせ
大きな古い靴を大きな人にはいてもらい
子供たちをみんな
踏みつぶしてもらいました。


  猫のいる町

少女ボピープは町に引越してきました
川のほとりの、猫のたくさんいる小さな町
町の人はみんな、やさしいボピープに
昼のあいだ猫をあずけることにしました。

夕暮れになるとボピープは
あずかった猫たちを客間にあつめ
しっぽをくっつけなおしてあげます。

陽の照る日も曇った日も
ボピープは猫のしっぽを洗濯するのです
曇った日はよくかわかないこともあり
猫たちは半がわきのしっぽで
家へ帰ります。


  午前七時の牛乳屋

牛乳屋は毎日
午前七時に来るはず
今日はなぜおくれたの
牛が寝ぼうしたから。


  うどん屋さんにて

手打ちうどん
長い、細い
太い、みじかい
いろいろだ
長いのはツルーン
細いのはツル
太いのはズルッ
みじかいのはスル
とてもみじかいのは、ス
それでは食べます
ズルッ、スル、ズルッ、スル、ツルーリ
ツル、ツル、ツルーリ、スル
ズルッ、スル、ツル、スル、ツルーリ
とてもみじかいのは最後にまとめて
ス、ス、ス、ス、ス、ス、ス、ス。


  腕時計

お湯がトウフだったら
お風呂屋はトウフ屋
ウナギが腕時計なら
手首に一匹まいておく。


  コマドリ

北風が吹くようになったら
すぐに雪が降るだろうなあ
かわいそうに
コマドリはどうするだろう
納屋のなかにすわって
冬のあいだじっとしてるかな
頭を翼の下につっこみ
朝、昼、晩、一日三食
自分の体をつついて食べながら。


  お父さんはウサギ狩り

デパートの屋上の動物園に住んでいる
オオカミのご夫婦に子供ができた
屋上の夜は秋になると冷えこむ
「あたたかい毛皮がこの子のために欲しいわ」
と奥さんに言われたおとうさんオオカミは
よしそれではと夜中にテッポウを持ち
三階のオモチャ売場のぬいぐるみ人形のところで
ウサギをしとめて皮をはいできた。





 赤いスカートの一昨日

睡眠不足の視線に
純粋な曲線のような時間
説明するための言葉
主観的な停滞
寝室のドアを閉じる
目も閉じてみる
どこまで自覚したか
風に散っていく言葉。

露天風呂で経済新聞
深い森の香り
北陸のトンネルの冷気
レンタカーと海岸線
ひとり旅の帰り道
ダージリンとライムのゼリー
十年ぶりのビスケット
汽車の窓から海を見た。

藤の花が咲けば
東の空に昇る月
西へと急いだ雨
月は浴槽に浮かぶ
月の満ち欠け
西の空に月を見る
夕焼けが風になる
夜空に迷いこむ。

時間を三つにたたむ
昨夜という遠い過去
バターは溶けない
二分の一カップのミルク
そして卵ひとつを
駅から歩いて十二分
ありふれた記念写真
冗談ではない。

この世の不思議とは
蜜柑をひとつ転がしてみる
青白く輝くシリウス
冬空の拠点
燗酒とイカの刺し身
マイナス一・五等星
ご存じですか
夜は朝を促す。





 角砂糖は紙に包まれた

西から雨、浜松、気温四度
フレッシュネス・バーガーの緑色
入ってすぐ右の角
ひょっとして36番テーブル
マスタードにケチャップは
あそこにある
オーガニック コーヒーのショート
チキン バーガー
コールスロー サラダ
天井でまわる扇風機
なにかお探しですか
冬季限定
ハニークリーム ティ
白い紙に包まれた角砂糖
ふたりだからふたつ
ホット チョコレート
手作りデザート
店内BGMはカヴァー曲
ペニー レインは青い空の下だという
何度もリフレイン
繰り返される日常
空疎さは増幅され得るか
僕から君へ
彼らは道に迷った
ルーシーがどうしたって?
空にいるんですよ
ダイアモンドを持ってるらしくて
全席禁煙
おい、ジュード
怖がるなんてよ
オニオン リングか
トウフがいいなあ
彼女の生まれた町では
夜中に靴下をつくろう
何曜日の夜だったか
スーツケースなしでやって来る
マンゴ スムージーは
クラム チャウダーでもあり得る
らちのあかない男なら
時間をかけろ、急ぐことはない
彼女を胸に取り込むとは
悲しい歌をもっといい歌にすることか
それはドアの脇に置いたガラス瓶のなか
チリビーンズ ドッグに
キャラメル マキアートも
それともフライド ポテト
チキン ナゲットは二個
ベジタブル バーガーで
ポップオーヴァーは
フレッシュ レモネードの
グリルド チキンだ。





 純粋な曲線のような時間

帰っていく森の向こう
渡るべきいつもの河
見つめる空の
底なしの青
季節ごとの風の香り
全景をゆっくり眺める
そして五感の総動員
二人で探しにいこう
アヴォカードの半分
昨日は昼月、今日は白い雲
純粋な曲線のような時間は
物語の背景
そしていくつもの主題
説明するための言葉に
知的関心
きみを美しくしているもの
すべてはそこが起点になる。





 トイレット・ボウルにおける挫折

天窓の斜めのガラスに積もる雪
かなえられなかった夢のように
先にのばされた期待のように。
洗面台の三面鏡が
今朝も彼女に語ること
この胸の奥深く
いつのまに抱えたのか
夢の実現という主題。
挫折の大きさに正しく比例して
微笑の魅力は深まった。





 日時計の影を読む

気持ちをこめてほんとに優しく
冷えた皿のアンディーヴ
口ずさんだ歌や
心をかすめた言葉
良いデザインとしての彼女の
肘から指先にかけて
昨日は風、今日は花
積乱雲の直径と
風景画のディテール
賢明な選択は
上品さの秘密そして
本質への最短距離
青空と森の絵葉書に
郊外の気象ニュース
日時計の影を読んで
風の香りを記憶する
一輪挿しの赤い花は
ハッピーエンドの色。





 歩いている彼女

落葉を踏む
ひとりで歩く
考えごとをしてみる
しかしいつのまにか
堂々めぐりとなり
おなじことを考えている
いちめんに草が枯れている
美しい
その上にすわってみたい
だから彼女は
すわってみる
タイト・スカート
パンプスの細いヒール
こんなものを身につけて
自分はいったい
なにをしようとしているのか
陽が照る
小鳥が鳴いている
なにかを悔みたい気持ち
なにを?
枯草の上に横たわる
あおむけになる
青い空が受けとめてくれる
歩いていく
冬の午後
草がここでも枯れている
陽が当たっている
暖かそうだ
あの草のなかのぬくもりと
おなじ暖かさを
自分のどこかに欲しい
海岸まで来てみた
風が吹いている
その冷たさを唇に
自分について自責ぎみに考えながら
なおも彼女は
歩いていく。





 6月21日のこと

シリウスが夜明けに初めて姿を見せるとき
きみが北北西なら僕は東南東か
日没がすべての規準だ
月食の日に月に写る地球の丸い影
その丸さのなかにきみも僕もいる
宇宙の神秘のかたち
クリスチャン・ホイヘンス
土星の環
ダンチッヒ天文台
アンドロメダ星雲の発見
木星の四つの衛星と光の速度
金星の満ち欠け
月の山脈
いくつもの言葉のつらなり
そこに生まれるイメージ
イメージがいくつも重なると
物語が出来る
その物語のどれかのなかに
きみと僕がいる
月光のソナタ、第一楽章
エストレリータ
星への階段
アラバマに落ちた星
スターダスト・メロディーズ
星の位置の測定と万有引力の理論
宇宙体系についての対話だ
1カンデラを1メートル離れて見た明るさ
雲のない満月の夜の明るさと
ほぼおなじ彼女の微笑
太陽の光に頭上から垂直に射されてみたい
北半球の6月21日、正午
かに座の回帰線上のどこかで
あの町の丘の上にあった部屋の小さなヴェランダ
太陽は沈んだが
夜はまだ始まっていない
薄明かりの空に背を向けて
彼女がそのヴェランダに立ったとき
彼女のうしろはるか彼方の空に
明るい惑星がひとつ
輝いていた
木星の記号の小さなペンダントを
僕が彼女に贈ったのは
その次の日、6月21日
彼女の誕生日のことだった
月は数多くの星をそのうしろに隠す
輝いていた一等星が
月の東側の縁へ吸い込まれたかのように
あのとき突然に消える
その逆もある
月の西側のたおやかなカーヴのなかから
三等星がいきなりあらわれる
月に大気はないから
どの星も突然に消え
突然に出現する
僕の知らなかったことを
白夜のような彼女は
教えてくれた。





 幸福な女性の謎

第三木曜日
ほんのり水色
粉雪の降り始め
オートミールとバナナの朝食
ブラック・コーヒー
薄化粧
セミ・タイト
なにのためでもなく
色を選ぶ
赤が似合う
十一月の灰色のスカート
野菜を買ううしろ姿
きれい好きな時間の使いかた
一日の終わり
今日はここまで
ブラック・コーヒーは正解だった。





 未来の果てまで

空に広がる雲
海に射す光
懐かしい町に時間が届く
夢のなかの幸福な人たちを訪ねたあと
月が昇って孤独を発見し
海はおもむろに傾き
時間が斜めに走る
夕暮れの影から出て
夜の底をかいくぐり
数多くの今日という
まぼろしの明日に向かう。





 雨の日の紅茶

アール・グレイから始まった日
TVをつけた彼女
台風関係のニュース
列島縦断
セーターを着ますか?
雨のなかを歩く
孤独は雨のよう
僕と彼女の
ふたとおりの孤独
濡れた坂道を上がっていく
彼女が僕をせかす
彼女にせかされる僕
ふとあの歌を思い出す
いつかあったおなじような場面
感傷にひたっている暇
坂を上がりきっていつもの店
窓辺の席
壁の水彩画
午後二時のシブースト
エスプレッソが冷えないうちに
土曜日が暮れていく。





 すべてはあなたから

いずれにせよ三郎さん
すべてはあなたから始まっています
あらゆるものごとは
あなたを起点にしています
どんなことも
あなたからスタートするのです
なぜって、ほら
ちょっと力こめてするとき
一、二の三と
誰もが三から始めます
ですからやはり三郎さん
すべてはあなたから始まります。





 私を甘やかす空間

夜の広がり
ひとりだけの部屋
心の荒野につらなる
高い山
その上空にきらめく
星という名のアクセサリー
眠っている私
寝返りを打つ私
用意してもらった夜
私を甘やかす空間
心のどこかで
今夜もまた
星が落ちる。





 ベイ・ブリッジ経由

クールな距離
心の迷路
ほのかに口紅
誰のためでもなく
秘密の場所
秘かな思い
湾の上の直進車線
胸に影を落とす月
フェイド・インなのか
フェイド・アウトなのか
きめかねて取り逃がす
荒野へ誘う星。





 4ビートの微笑

ピアノ・トリオは
誰のための伴奏なのか
簡潔なメロディ・ライン
振り返った彼女の
肩の線
えくぼ
つまさき
気のきいた会話
4ビートの微笑
港の夜はピアノだ
すべてはあのバラッドの
和音のままに。





 人生はこうでなければ

鏡のなかから自分を取り出す
花瓶に花を活けるように
自分を取りもどしたい
花はやがて散る
さまよい歩く私
現在とはいつのことですか
時とはなになのですか
素どおりした一週間
いまは月曜日
もとのもくあみ。





 ありもしない幸福

かすかな冷たい音は
去っていく時間の速度
落ちかかった月は
発見したばかりの孤独
月と孤独
無関係なものの関係
心のなかの予感を映して
夜空に稲妻が走る
悲しさがわかっている人は
ここまで美しくなった
静かな生活と秘かな思い
そして彼方を見るなら
遠い国に懐かしい人たち
西日の意味がやっとわかった
しかし安心してはいけない
かつてあったものは
もはやどこにもない。





 秋のキチンで僕は

目を覚ました僕は寝室を出た
彼女は仕事に出たあとだった
僕はキチンに入った
食卓のいつもの椅子にすわった
キチンには匂いがあった
パーコレーターでいれたコーヒー
シナモン・トースト
彼女のシャンプー
ないしはリンスの香り
そしてさらに
なにであるか不明の
なにかの匂い
服の匂いか
彼女の秋の服
今日から彼女は秋の人
僕はいまでもまだ
Tシャツにトランクス一枚
涼しさをとおり越して
肌寒さを感じる季節
僕は両腕を撫でてみる
陽焼けが淡くなりつつある
残念
どうしよう
というところからはじまる
今日という一日。





 あの影を愛した


光と影によって
道路はふたつに分かれている
こちら側の歩道は陽ざしのなか
そしてむこうは影のなか
完璧なスーツ姿の彼女が
こちらから向こうへ
道路を横切っていく
光のなかから影へと入っていく瞬間
彼女の魅力は
最大限にふくらむ。


おなじ彼女は
別なときのちがう場所で
プールの縁に水着姿で立つ
その縁だけに夕方の陽が斜めに射す
ほかはすべて影のなか
鋭く優美に水面にむけて
彼女はダイヴする
彼女の体は空中で夕陽にきらめき
おなじ空中で
影のなかへ飛び込む
この瞬間にも
彼女はこの上なく美しい。





 明日は今日よりもっと

話に花がさく
目を輝かせて
すさまじい陰口
愚にもつかない話題
はじける笑い声
時間はどこへ向かうのか
ちょっとそこまで
では、いってらっしゃい
明日は今日よりもっと
平凡な日常
生活は工夫しだい
いくらでも楽しく
みんなどこかへ落ちていく。





 今日という昔

今日はブルーな心
心などというもの
心は誰かのアクセサリー
雨嵐が通過する
駐車場で別れる
彼女のルノーを見送る
自分を取り戻す
心をこめて敬具
めでたくかしこ
今日という昔は
雨のなかで半分終わった。





 頑張ってください

やはりさすがに
なるほど、はい
とは言え、ところで
考えておきましょう
ご存じかと思いますが
まあいいじゃないですか
先日は失礼しました
その節はたいへんどうも
そんなこと言ったって
なんとかしましょう
頑張ってください
ご苦労さま、お疲れ様
なにかひと言
そうですね、まあ
それは言えてるけど
それはないだろう
ごめんなさいの一点張り。





 桟橋で深呼吸

誰もまだ気づかない彼女
いまだに彼のままの彼
人は現実を生きるのではない
物語のなかを生きる
ファースト・シーン
ラスト・シーン
思いのまま
彼女が主人公
彼が語り手
いくつもの主題が
天から降ってくる
地から湧いてくる
物語の背景をさがそう
港のある町
桟橋で深呼吸。





 途中から始まる物語

口ずさんだ歌
心をかすめた言葉
風景画のディテール
積乱雲の直径。


昨日は雨、今日は花
懸命な選択
上品さの秘密
肘から指先にかけて。


西へと急いだ雨の夜
夜空に迷い込む
星の言葉を聴く
月は浴槽に浮かぶ。





 私のこんな朝

朝起きる
私はひとり
浴室
洗面
着替え
キチン
誰もいない
静か。
目覚めてから私は
いろんな音を立てた
誰も聞いてくれない
誰の耳にも届かない
どの音も消えた
そしてキチンのテーブルで
椅子にすわり
私は目を閉じる
片手で顔を覆う
かすかに石鹸の香り
私は泣きたい。





 私と指輪とあなた

あなたはすこし変わった人
手の握りかたを
繰り返し何度も
私に教えた。
私の左手が
あなたの右手を
優しくとらえるのを
あなたはことのほか
好んだ。
「指輪が邪魔だ」
と、あなたは言った
私の大好きだった指輪。
私はその指輪を
右手に移した。
あなたと別れて
かなりになる。
右手に移したあの指輪は
いまはもう使っていない
指輪をひとつ
ダメにしたあなたは
やはり少しだけ変な人。





 Misty

白い花が咲いた
港は霧に沈んだ
微笑が風を受けとめた
花模様にひそむ
彼女らしい彼女。

不足のない一日
自由時間の奥は深い
さりげなくその場を離れ
ひとり遠のいて
息づかいは正しく。





 私の心の色です

ほんのりとブルー
ごく一時的なブルー
とても小さなブルー
いろんなブルーの扱いかた
ミッドナイト・ブルー
ブルー・マイナー
ブルー・イン・グリーン
回想のスカイ・ブルー
もっと深いブルーを。

ブルーに巻き込まれ
ブルーな世界です
すべてを知った青い色
見つめる空の底なしの青
水平線の吐息に
しばらく耳を済ます
星の言葉を聴く
季節ごとの風の香り
いまここという自分の現在
私の色はブルーにします。





 川のそばに住んだ

初冬の朝
柿の熟れぐあい
蜜柑の栽培
湯けむりの町
雨が降った
海へ向かった
遠ざかる地平線
太平洋からの冷気
午後のひととき
コーヒー・ブレイク
距離のとりかた
なんとなく可能性
そうもいかない
それがどうした
よくわかってる
気にしなくていい
上りの急行が
鉄橋を渡る。





 歩いていく途中

甘いメロディ
ソフトなキャンディ
花びらの一枚一枚
少しだけ明るい微笑
去ってゆく今日
共有されるはずだった理想
役に立たない追憶
迷路の内部
雨のなかの日時計
なんとかしたい
なにも残らない
生きて呼吸している
かすかな
冷たい音
消えてゆく薔薇の花。





 期待してしまう

肝心なところで大あくび
単なる馬鹿か
キャラクターの深さか
喧嘩にならない。
手紙や絵葉書
おみやげのわさび漬け
仕事で東京に来る
私の部屋に泊まる。
あなたのこれから
簡単ではないのに
ただひとつ確かなこと
やがて近い将来
なにもが新品だった頃の
昔の話になるということ。





 孤独の影

目覚めの一杯
ローズマリーの白
記憶のかなたから
過去のさまざまな出来事
人の世のあれやこれ
歴史的事実に
旅人の感傷
静かに深呼吸
淡さに徹して
言葉少なに淡々と
平凡な生活の
簡潔な報告
事実が物語る
負担は軽い
ゆっくり歩く
孤独の影。





 三十歳の冬だった

きわめて明快な特性
オンとオフの切り換え
かさばらず軽くて
動きやすい
さらに改良
価格はそのまま
見くらべてください
この品質
作り続けて三十年、経験と自信
四十からの人生は
まだ十年あと
やるだけやった
きっとどこかで
大好評のはず
あとは自分の責任が
あったりなかったりの
それが彼女のスタイル。





 初冬にかけての京都

晩秋に近づくと
まず思い出す
胸の高鳴り
日本海からの雨雲
偏西風に乗って東へ
木枯らしが吹いて
心のおもむくまま
千年の真理、一滴の水
ピラミッドを飾る三日月
端正に正座して
あざやかに蘇る
ミルク・コーヒーの
哀愁。





 リカ子月夜歌

ジンとソーダそしてライム
なによりも手際が大切
さすがの出来ばえ
それがうれしくて
心機一転
気分転換
ひとときのお約束
来るはずだった台風
通り過ぎる雨
心静かに人生経験
つかず離れず和洋折衷
そしてそこから
満月に向けて
一直線。





 三十歳の来し方

泣いてすっきり
馴染みのカウンター
名残の雪は悲歌のよう
これでいいのか
一夜が暮れる
目覚めた朝の
窓は時雨れて
寒冷前線、誕生日
落とした生卵に
人生が映る。





 彼女のいつもの地平線

花がきれいに咲いている
ポインセチア
冬の過ごしかた
チリのモリーナ、赤ワイン
アドリア海でとれた塩
舌の先に広がるあの海
刻まれていく幸せ
日常の時間を三十年
思いのほか捨てたものでない
曇りのち晴れ、今日も時雨れる
ところにより
地平線が傾く。





 ゆっくり歩いて帰る

愚痴を聞いてもらう
お酒を少し飲む
にわか雨
夜道を歩く私
日々というもの
答えは出ない
気分の落ち込み
ミネラルとカリウム
旅の本を買う
手帳の月齢を見る
失敗と失恋
ときどき手紙
あなたが好き。





 いまでも当てはまる

目をつむるとたちまち
呼び覚まされる記憶
ふたつ目の信号を左へ
郵便局のある場所
ひとつ手前のバス停
歩いて7、8分
下り坂の小径
冷凍庫のアイスクリーム
伏せられたままのワイン・グラス
蛍光灯を交換する
日曜日の夕食
皮をむいて細めの千切り
誰でも知っている昆布
部屋の明かりを消す
横顔の残像
現在までの
こうした単純な物語
一人称の語り手が
三人称のつもり。





 メントール・ユーカリプト(1)

タイトル・ソング、予感のバラッド
真夏へフェイド・イン
彼女が走り抜ける夏
影が光を追いかける。

そしてある夜のこと
思いがけない不都合、ワルツの危機
出来る限りのことはした
その言葉を信じよう。

黒いインクの手紙、ほのかな望み
すぐに出来るはずの思い出
そこにいない人の名前、海からの風
陽の沈む音が聴こえる。

単なる経験不足、とても良い忠告
ブラック・コーヒーだけが正解
いまに夕立が来る
誰もいない真夏の庭、本質への近道。





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