監督:伏原健之
出演:津端修一、津端英子
制作:東海テレビ放送/2016
URL:http://life-is-fruity.com
場所:ポレポレ東中野

愛知県春日井市にある高蔵寺ニュータウンの片隅に建てられた平屋で、周りに植えられた雑木林と共にその土地に根ざした丁寧な生活を実践している津端修一さん、津端英子さんご夫妻のことはもうすでにテレビや書籍などを通じてとても有名な方たちだった。それなのに、自分の得る情報が偏っているためなのか、さっぱりご存じ上げなかった。

この映画を観ると、家庭菜園から採れる豊富な野菜、果物にまずは目が行って、それらが津端英子さんによって美味しそうなごちそうに変わって行く食生活のリズムにとりこになってしまう。どうしても慌ただしい生活を送っている自分たちと比較してしまって、静かに、ゆっくりと流れる時間の中に身を置いて生活の出来る彼らを憧れの目で見てしまう。でもそれを真似しようとしても、津端修一さんが持っているような、ちょっとしたポリシーと云うのか、ルールと云うのか、独特な行動の慣習がなければ、ここまで生活にハリが出ないし、豊かな感情が溢れ出てくることもないんじゃないかとおもう。

・コメントを書いた札を下げる。
・木のスプーンを使う。
・特別な日は旗を掲げる。
・自分たちが作ったものであるしるしに焼き印を捺す。

などなど。

だから津端英子さんは津端修一さんを亡くした時に、先導役がいなくなった、と云うようなことを口にしたのではないかとおもう。

津端修一さんのような自分なりの行動規範をしっかりと持たないと。まずはそこからだとおもって、現在発売されている彼らの書籍を見たら、どれもこれも昔の「ku:nel 」のような本ばかりだった。いや、だから、そのような本が欲しいのではなくて…。

→伏原健之→津端修一、津端英子→東海テレビ放送/2016→ポレポレ東中野→★★★★

監督:ギャレス・エドワーズ
出演:フェリシティ・ジョーンズ、ディエゴ・ルナ、リズ・アーメッド、ベン・メンデルソーン、ドニー・イェン、チアン・ウェン、フォレスト・ウィテカー、マッツ・ミケルセン、アラン・テュディック
原題:Rogue One: A Star Wars Story
制作:アメリカ/2016
URL:http://starwars.disney.co.jp/home.html
場所:109シネマズ木場

『スター・ウォーズ』シリーズのスピンオフ作品。時系列としては『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』の直前のエピソードにあたる。

『スター・ウォーズ』シリーズの本編が、エピソード7の『フォースの覚醒』までを観たかぎりでは、9部作全体としてのストーリー構成にどこか迷走を感じてしまうので、ここでスピンオフ作品を観るのはちょうど良いタイミングだったのかもしれない。それも第一作の『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』に直接繋がるストーリーなので、ラストの出来過ぎなデス・スター設計図奪取も細かいことはあーだこーだ云わずに寛容してしまって、ノスタルジックも手伝ってとても面白く観てしまった。特にエピソード4のオリジナル映像を使ったCGには、それが出てくるだけで1978年の日劇の夏を思い出してしまって鳥肌が立つばかりだった。ラストにキャリー・フィッシャーを持ってくるのは、彼女が昨年末に亡くなったばかりなので、反則だよなあ。涙、涙。

ギャレス・エドワーズをちょっと見直したなあ、とおもったら、トニー・ギルロイが撮り直したとか。ああ、やっぱりトニー・ギルロイのほうが巧い。

http://eiga.com/news/20160810/20/

→ギャレス・エドワーズ→フェリシティ・ジョーンズ→アメリカ/2016→109シネマズ木場→★★★☆

監督:マーティン・スコセッシ
出演:アンドリュー・ガーフィールド、アダム・ドライバー、リーアム・ニーソン、浅野忠信、キアラン・ハインズ、窪塚洋介、イッセー尾形、塚本晋也、小松菜奈、加瀬亮
原題:Silence
制作:アメリカ/2016
URL:http://chinmoku.jp
場所:109シネマズ木場

遠藤周作の小説「沈黙 」を原作にした映画は1971年の篠田正浩監督に続いて2回目。

マーティン・スコセッシが日本の小説を原作とした映画を撮ることに多大な期待を寄せてしまったためか、おもったよりもフツーの映画だった。いやいや、とても良く撮っている映画で、充分に楽しめる映画ではあるんだけど、それ以上のものを求めてしまっていた。

まず、タイトルを「沈黙」としているわりにはあまりにも語り過ぎている映画だった。長編小説を原作としているのだから、その情報量を映像化するにあたってセリフが多くなってしまったり、ナレーションで場面を説明しなければならなかったりと、ある程度は饒舌になってしまっても仕方がないとはおもう。でも、日本を舞台にしていて、それも「神」についての、「魂の救済」についての映画ならば、どこか日本的な静かな美しさとでも云うのか、静謐な感じが欲しかったようにもおもう。キム・アレン・クルーゲとキャスリン・クルーゲの音楽がどこか控えめで、厳かな感じが漂っているのに対して、アンドリュー・ガーフィールドなどのナレーションをかぶせてくるところがうるさ過ぎた。

それに役者の演技もうるさかった。マーティン・スコセッシが黒澤明を敬愛していることからか、黒澤明的なダイナミックな演出に向かってしまっていて、すべてにおいて、通りを行き交う市井の人びとさえもがオーバーアクション気味の演技だった。アンドリュー・ガーフィールドとアダム・ドライバーの西洋人宣教師と、日本の控えめであるからこそ虐げられてしまう農民たちとの差が、もっと演技においてでも出ていれば良かったようにもおもう。塚本晋也も、イッセー尾形も、とても巧いとはおもうのだけれども、どこか作られた感じがしてしまって。

その点、篠田正浩版はどいなんだろう? ちょうど日本映画専門チャンネルで放映していたので録画しておいた。ちょっと見比べてみようとおもう。

追記。2017.2.6
篠田正浩版は、印象が驚くほどスコセッシ版に似ていた。つまりスコセッシは、日本人を描くにあたって日本人監督の撮った映画を参照したのかなあ。

→マーティン・スコセッシ→アンドリュー・ガーフィールド→アメリカ/2016→109シネマズ木場→★★★☆

監督:ダンテ・ラム
出演:エディ・ポン、ショーン・ドウ、チェ・シウォン、ワン・ルオダン、アンドリュー・リン、オーヤン・ナナ、カルロス・チャン
原題:破風 To the Fore
制作:香港、中国/2015
URL:http://shippu-sprinter.espace-sarou.com
場所:新宿武蔵野館

ダンテ・ラムの映画を今回はじめて観た。

『疾風スプリンター』は自転車ロードレースの世界を舞台にした映画で、そのレース・シーンはウェアラブルカメラを使った登場人物の主観撮影や自転車の隊列を上空から収める俯瞰カメラなどにとても迫力があって、その自転車レースのシーンを見るだけでも充分に楽しめる映画になっていた。でも、そのレース・シーンとレース・シーンとのあいだに展開されるドラマの部分が、まるで韓国や台湾のテレビ・ドラマのようなベタベタなドラマで、そこを楽しめるかどうかが大きなポイントとなる映画だった。申し訳ないけど、自分はダメだった。

ただ、主演俳優が台湾(エディ・ポン)、中国(ショーン・ドウ)、韓国(チェ・シウォン)の人で、監督が香港の人と云う総合東アジア映画になっているところが羨ましかった。そこに日本人がいないのが哀しい。

→ダンテ・ラム→エディ・ポン→香港、中国/2015→新宿武蔵野館→★★☆

監督:ジョニー・トー
出演:ルイス・クー、ビッキー・チャオ、ウォレス・チョン、エディ・チョン、ロー・ホイパン、ラム・シュー
原題:三人行 Three
制作:香港、中国/2016
URL:
場所:新宿武蔵野館

ジョニー・トーがあまりにも多作で、すべてが劇場公開されるわけでもなく、映画祭などで上映されるだけの場合もあるのでポツポツとしか作品を追えていないのだけれど、観ることができれば充分に楽しめる映画を作ってくれている。

今回の『ホワイト・バレット』は、まるでポール・トーマス・アンダーソンの『マグノリア』のような、それぞれの登場人物たちが時間を追うごとにどんどんと仕事に行き詰まって行って、もうにっちもさっちも行かなくなってしまった状態で、その負のパワーのすべて集約して段階で大爆発を起こす映画だった。そしてその大爆発のシーンが、ジョニー・トーが得意とする視点移動によるスローモション撮影で、これでもか! と云うほどに、コテコテなガン・アクションが長回しで展開されるので、そこにはもうただ笑うしかなかった。

ラストへの大爆発までの過程で、ちょこちょこと伏線がはられていて、それがあまりにも細かかったり、さらりと描かれていたりして、うーん、紙袋に入った拳銃はいったいなんだ? とか、どうしてそんなに口笛の曲を重要視するんだろう? とか、その手錠の鍵は偶然に落ちていただけじゃないか! とか、頭の中でグルグル、ゴチャゴチャと考えながら映画を観ていたのだけれど、最後の大爆発でそんなのどーでも良くなってしまった。もう大爆笑あるのみ!

→ジョニー・トー→ルイス・クー→香港、中国/2016→新宿武蔵野館→★★★☆

監督:テレンス・マリック
出演:クリスチャン・ベール、ケイト・ブランシェット、ナタリー・ポートマン、ブライアン・デネヒー、アントニオ・バンデラス、ウェス・ベントリー、イザベル・ルーカス、テリーサ・パーマー、フリーダ・ピントー、イモージェン・プーツ
原題:Knight of Cups
制作:アメリカ/2015
URL:http://seihai-kishi.jp
場所:ヒューマントラストシネマ渋谷

テレンス・マリックの映画は、長編デビュー作の『地獄の逃避行』の時からすでに美しい自然と対比するように登場人物たちを配置した情景描写を多用していて、そこに登場人物によるモノローグを重ねながらストーリーを進めて行くスタイルを取っていた。でも『地獄の逃避行』や『天国の日々』のころは、まだはっきりとしたストーリーの中にそのイメージを断続的に挟み込むだけで、誰もが理解することのできるフツーの起承転結を重んじる劇映画の体をなしていた。それが『天国の日々』から20年のブランクの後に撮った『シン・レッド・ライン』ではそのスタイルが先鋭化していて、とても叙情的で詩的なイメージを先行させる作風に変化しつつあった。それがさらに『ツリー・オブ・ライフ』では鋭角化して、おぼろげながらストーリーラインはあるけどれども、情景イメージと登場人物によるモノローグと云った構成が散発的に連なって行くだけのスタイルに変貌して、まるで映像詩集のような体をなすようになってしまった。それは『トゥ・ザ・ワンダー』でも、今回の『聖杯たちの騎士』でも同様のスタイルを採用している。

最初の『ツリー・オブ・ライフ』の時にはそのスタイルにも新鮮味があって、ストーリーを追いかける必要性がないくらいの心地よさを感じることができたけれども、それが『トゥ・ザ・ワンダー』『聖杯たちの騎士』と繰り返されると、うーん、どうしても映像美を強調させたイメージばかりなのが鼻につくようになってしまって、ストーリーの補助がないままに美しい映像だけを見せられ続ける退屈さが先行してしまうんじゃないかともおもう。ヒッチコックの云う「観ている人たちのエモーション(感情)」を持続させることに失敗しているんじゃないかと考えざるを得なくなってしまう。

私のようなテレンス・マリックの映画が好きなものにとってはこのようなスタイルでも「エモーション」を持続することには何の問題もないけど、一般の観客にとってはどうなんだろう? できることならば『天国の日々』あたりの原点に立ち返ってくれると嬉しいんだけれども。

→テレンス・マリック→クリスチャン・ベール→アメリカ/2015→ヒューマントラストシネマ渋谷→★★★☆

監督:ケント・ジョーンズ
出演:マーティン・スコセッシ、デビッド・フィンチャー、アルノー・デプレシャン、ウェス・アンダーソン、黒沢清、ジェームズ・グレイ、オリビエ・アサイヤス、リチャード・リンクレイター、ピーター・ボグダノビッチ、ポール・シュレイダー、アルフレッド・ヒッチコック、フランソワ・トリュフォー
原題:Hitchcock/Truffaut
制作:フランス、アメリカ/2015
URL:http://hitchcocktruffaut-movie.com
場所:新宿シネマカリテ

1981年に晶文社から「定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー」が発行された時、学生の身としては2900円と云う値段は途方もなく高く感じられたけど、和田誠の「お楽しみはこれからだ」の影響でヒッチコックの映画が大好きになっていたので、どうしても欲しくて昼飯を抜いてまでしても買ってしまった。

映画をたくさん観はじめた当初、監督が映画を作っていることは、なんとなく、わかりはじめていた。でも実際に何をしているのかは具体的によくわかっていなかった。「演出」とは何なのかまったく理解していなかった。そこへの疑問を解決してくれたのが「定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー」だった。特に映画を観ている人たちのエモーション(感情)をコントロールするためにはどのようなショットの積み重ねが必要なのかを懇切丁寧に説明しているところに云いようもない興奮を覚えてしまった。例えば、「定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー」のP100には次のように書いてある。

映画づくりというのは、まず第一にエモーションをつくりだすこと、そして第二にそのエモーションを最後まで失わずに持続するということにつきる。映画づくりのきちんとした設計ができていれば、画面の緊迫感やドラマチックな効果をだすために、かならずしも演技のうまい俳優の力にたよる必要はない。わたしが思うに、映画俳優にとって必要欠くべからず条件は、ただもう、演技なんかしないことだ。演技なんかしないこと、何もうまくやったりしないこと。

このことに衝撃を受けて今でも付箋がはってある。この「演技なんかしないこと」には異論もあるのかもしれないけど、たしかに小津安二郎やロベール・ブレッソン、最近ならば濱口竜介の映画を見るとそれを強く感じる。

この「定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー」をトリュフォーが本としてまとめる時に行ったヒッチコックへインタビューの音源がしっかりと残っている。その音源の一部を利用して、さらに様々な監督にヒッチコックについて語ってもらったインタビューを元に構成したドキュメンタリー映画がケント・ジョーンズ監督の『ヒッチコック/トリュフォー』だった。

でもこの映画、マーティン・スコセッシをはじめとした錚々たる映画監督たちのヒッチコック礼賛が綿々とつづられているだけで、いまひとつ面白味に欠けていた。できることならば、「定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー」の中で再三ヒッチコックが語っている「エモーションの持続」のことを自分としてはどのように捉えていて、どのように実践しているのかぐらいは語っている監督が欲しかったような気がする。

それになぜブライアン・デ・パルマがこの中にいないんだろう? 故コリン・ヒギンズ(ヒッチコック映画のエッセンスがちりばめられた映画『ファール・プレイ』の監督)にもヒッチコックについて聞きたかったなあ。

→ケント・ジョーンズ→アルフレッド・ヒッチコック→フランス、アメリカ/2015→新宿シネマカリテ→★★★

今年、劇場で観た映画は全部で81本(回数は『シン・ゴジラ』と『この世界の片隅に』を2回ずつ観たので83回)。
その中で良かった映画は以下の通り。

ハッピーアワー(濱口竜介)
リップヴァンウィンクルの花嫁(岩井俊二)
ボーダーライン(ドゥニ・ヴィルヌーヴ)
レヴェナント: 蘇えりし者(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ)
エクス・マキナ(アレックス・ガーランド)
シン・ゴジラ(庵野秀明、樋口真嗣)
イレブン・ミニッツ(イエジー・スコリモフスキ)
淵に立つ(深田晃司)
手紙は憶えている(アトム・エゴヤン)
この世界の片隅に(片渕須直)

今年は邦画が5本も入っている! 『恋人たち』(橋口亮輔)も『FAKE』(森達也)も『君の名は。』(新海誠)も『オーバー・フェンス』(山下敦弘)も次点に入るくらいの面白さだったので、見逃した映画の中にも面白いものがあったに違いない、とおもえるほどの邦画の年でした。

監督:ユーリー・ノルシュテイン
出演:
原題:
制作:ロシア(ソ連)/1968〜1979
URL:
場所:シアター・イメージフォーラム

むかし勤めていたレーザーディスクのソフトを発売していた会社は、映画とかミュージック・クリップとかコンサートや舞台のライブ映像とか、今までにもビデオのパッケージとしてすでにあったあきりきたりなコンテンツとは別の、誰もあまり目にしたことのないような映像を発掘して、それをソフト化してレーザーディスクに新たな境地を見い出そうとしていた。その中に「アニメーション、アニメーション」と云う世界のアニメーションを紹介するシリーズがあった。

アニメーションと云えば、まずは昔のテレビアニメなどに使われてたセルアニメをおもい出すし、今ならCGを使ったアニメをおもい出すかもしれない。でも、アニメーションを行うための手法は様々だ。粘土を使ったり、パペットを使ったり、砂を使ったりと、世界中にはいろんな手法を使ったアニメーションのアーティストがたくさんいた。それを教えてくれたのが「アニメーション、アニメーション」のシリーズだった。

「アニメーション、アニメーション」シリーズのアーティスト
・岡本忠成
・川本喜八郎
・手塚治虫
・久里洋二
・ユーリ・ノルシュテイン
・イジィ・トルンカ
・ラルフ・バクシ
・フレデリック・バック
など

この中でもロシアのユーリー・ノルシュテインのアニメーションは、記憶に残っているはずもない(深層心理として存在しているだろう)小さな子供のころに見たイメージを再現しているように感じられて、なぜか郷愁感いっぱいにさせられてしまう。ロシア語のナレーションでさえ、子供の頃に訳もわからずに聞いていた大人たちの言葉の響きにもおもえて懐かしく感じてしまう。なぜロシアと云う文化の違う国で製作されたアニメーションに郷愁を感じてしまうのかはわからない。でもそこに切り絵を使ったアニメーションと云う技法が介在しているからだとはおもう。今年は『君の名は。』や『この世界の片隅に』のようなアニメーションの秀作が生まれた年でもあったけど、ふっとユーリー・ノルシュテインに立ち返れるタイミングがここで出来たのは素晴らしかった。

【今回の上映作品】
『25日・最初の日』(1968年/9分)
『ケルジェネツの戦い』(1971年/10分)
『キツネとウサギ』(1973年/12分)
『アオサギとツル』(1974年/10分)
『霧の中のハリネズミ』(1975年/10分)
『話の話』(1979年/29分)

→ユーリー・ノルシュテイン→→ロシア(ソ連)/1968〜1979→シアター・イメージフォーラム→★★★★

監督:片渕須直
声:のん、細谷佳正、稲葉菜月、尾身美詞、小野大輔、潘めぐみ、牛山茂、新谷真弓、岩井七世、小山剛志、津田真澄、京田尚子、佐々木望、塩田朋子、瀬田ひろ美、たちばなことね、世弥きくよ、八木菜緒、澁谷天外
制作:「この世界の片隅に」製作委員会/2016
URL:http://konosekai.jp
場所:丸の内TOEI

こうの史代の「この世界の片隅に」には、一つのコマにたくさんの情報が詰まっているので、たとえその時代、その場所に生きたことがなくても、誰しもがそこに書かれてる細かい情報のどれかに自分の人生を照らし合わせることが可能で、そこでの共感が「この世界の片隅に」をより一層奥深いものにしているとおもう。そのこうの史代のマンガを忠実にアニメーション化した片渕須直監督の『この世界の片隅に』にも、動いているからこそなお一層共感を覚えるところが多々あって、自分がビーンと反応した部分を以下に列記してみようとおもう。

・戦艦「大和」、重巡洋艦「日向」「利根」

「この世界の片隅に」の「浦野すず」が嫁いだ先の広島の呉は、戦艦「大和」などが建造された軍港としても知られていて、映画の中でも遠く望む港に大きな戦艦がスーッと横切るシーンがある。

「浦野すず」が「ありゃ、なんですか、船ですか」と聞くと「周作」が「大和じゃ! よう見たってくれ、あれが東洋一の軍港で生まれた世界一の戦艦じゃ」と答える。呉での居場所を見失いつつある「すず」に対して、その悩みの小ささを気付かせるような「大和」の勇壮さが印象的なシーンだった。

戦艦「大和」と云えば小学生のころによく戦艦のプラモデルを作った。タミヤ、アオシマ、ハセガワ、フジミの模型会社4社が、第二次世界大戦時の日本海軍艦艇を分担してプラモデル化して行ったウォーターラインシリーズを片っ端から作ったのだ。「大和」はもちろんのこと「武蔵」や空母や重巡洋艦や駆逐艦までも。

その重巡洋艦の中にちょっと変わった戦艦があった。艦の前方には普通に砲塔を備えているのだけれど、後方には砲塔はなく、その代わりにまるで空母のような飛行甲板が備えてあって、航空機の離着陸ができるようになっている重巡洋艦があったのだ。その代表的なものが「日向」「利根」だった。戦艦と空母の両方を兼ね備えた万能戦艦にも見えて、全体的なフォルムもカッコよく、「大和」や「武蔵」よりも大好きな種類の戦艦だった。

「浦野すず」の義理の姪にあたる「黒村晴美」が遠くに望む呉の港に泊まっている戦艦を指さして、「ありゃ、「利根」よ、重巡じゃ」と云う。「すず」が「ジュージュン?」と問うと「晴美」は「重巡洋艦」ときっぱりと云う。そしてさらに「ほいであれは「日向」よ、航空戦艦じゃ、うしろに砲塔がないじゃろ」と云う。

航空戦艦にはそのフォルムが特殊なので、詳しい人に習えば誰でも遠く離れた場所からでもすぐに云い当てられるようになるとはおもうのだけれど、小さな女の子がパッと航空戦艦を云い当てるカッコ良さはこの映画の中でも突出していた。だからこそ自分にとっては「黒村晴美」への想いが強くなってしまった重要なシーンでもあった。

・学校の床の穴

小学校の教室の床が木だった経験をしているのは昭和の何年くらいまでの人だろう。木と云っても、もちろんフローリングなんてこじゃれたものではなくて、合板でもなんでもなくて、そのものずばりの木の板だ。だから、おそらく木目の部分なんだろうけど、そこが脱け落ちてしまって、床に穴が空いていることがよくあった。

映画の中で小学生の「浦野すず」は、消しゴムのカスを集めてその床の穴に捨てていた。このシーンを見るまで自分が同じことをやっていたなんてすっかり忘れていた。小学生の男子の多くはガサツで、みんな消しゴムのカスなんてそのまま床に落とし放題だったのに、なんて自分は奇麗好きだったんだろう! いや、おそらく、誰かに影響されたのだろうけど、細部のことはすっかり忘れている。この小さなエピソード(原作にももちろんある)は「浦野すず」に対して感情移入する重要なポイントになった。

・遊廓の門

邦画にはむかしの遊廓(または戦後の赤線)を舞台にした映画がたくさんあって、なぜかそのたぐいの映画に好きなものが多い。川島雄三の『幕末太陽傳』や『洲崎パラダイス赤信号』とか、加藤泰の『骨までしゃぶる』とか。

で、その遊廓の入り口には、まるで現実の世界と夢の世界を隔てる境界線のような大きな門が必ずあった。『幕末太陽傳』の居残り佐平次(フランキー堺)も『洲崎パラダイス赤信号』の三橋達也と新珠三千代も『骨までしゃぶる』のお絹(桜町弘子)もその門をくぐったら最後、遊廓(赤線)に捕らわれてしまって、そこから出たくともなかなか抜け出せなくなる。いや、必死に脱け出そうとすれば脱けられるのかもしれないけれど、そこに居着いてしまう甘美な魅力があって、次第にそこが自分の居場所となってしまう。

「浦野すず」が迷い込む呉の「朝日遊廓」も、「ここは竜宮城か何かかね!!!」と「すず」が云うように、甘い匂い漂わせる女たちがたむろする現実離れした場所だった。そしてそこで出会う「白木リン」にも、この世のものとはおもえない果無い不思議な魅力があって、「この世界の片隅に」の中に出てくる「ばけもの」や「座敷童」や「わにの嫁」と同じ系列の寓話的なキャラクターにも見えてしまった。できたら「すず」に、「白木リン」はどう云った経緯で「朝日遊廓」を自分の居場所としたのか絵物語にして欲しかった。(エンドクレジットの、クラウドファンディングしてくれた人びとの名前が列挙されている下の部分の紙芝居的な絵がそれだったのかもしれない!)

映画の中で「すず」と「白木リン」が別れるシーンに大きな門があったように記憶してたけど、再度映画を観てみると、うーん、門なのか、ただの電信柱なのか良く分からなかった。原作を見ても「朝日遊廓入口」と看板があるだけだった。今まで見てきた遊廓を題材にした映画と同じように大きな門があると勝手に推測を膨らませてしまっていた。でも、この「朝日遊廓」の境界をくぐったことによって、まるで『千と千尋の神隠し』のように「白木リン」と云う摩訶不思議なキャラクターの手助けで、わだかまっていた悩みに対する回答を得られたのはまさに「遊廓」だからこそだったような気がする。「白木リン」の、「誰でも何かが足らんぐらいで、この世界に居場所はそうそう無うなりゃせんよ」のセリフは、映画『この世界の片隅に』の核となるセリフだったんじゃないかと今になってはおもう。

→片渕須直→(声)のん→「この世界の片隅に」製作委員会/2016→丸の内TOEI→★★★★☆