キャロル

監督:トッド・ヘインズ
出演:ケイト・ブランシェット、ルーニー・マーラ、サラ・ポールソン、カイル・チャンドラー、ジェイク・レイシー、コーリー・マイケル・スミス、ジョン・マガロ、キャリー・ブラウンスタイン
原題:Carol
制作:アメリカ/2015
URL:http://carol-movie.com
場所:ユナイテッド・シネマ浦和

この情報過多の時代に、Twitterを使っているにもかかわらず、事前の何の情報も入れないでこの映画を観ることができた。なんとなく、公式サイトのビジュアルから女二人の友情の映画ではないかと推測していたのだけれど、でも、ファーストシーンの、別れ際にケイト・ブランシェットがそっとルーニー・マーラの肩に手を置く仕草で、ああ、この映画は二人の友情の物語ではなくて、愛情の物語なんだなあ、と理解することができるような心憎い演出からはじまる素晴らしい映画だった。

原作はパトリシア・ハイスミスの小説『The Price of Salt』。パトリシア・ハイスミスと云うと、ヒッチコックの『見知らぬ乗客』やルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』の原作者として名前を知っていたけど、1952年にクレア・モーガン名義でこのような人妻と女性店員の恋愛を描いた小説を発表し、百万部を超えるほどのベストセラーになっていたとはまったく知らなかった。実際に『The Price of Salt』をパトリシア・ハイスミスが書いていたことを公表したのは1990年になってからだそうで、おそらく、その時にはアメリカ文学のファンのあいだでは大きなニュースになっていたのかもしれない。

この映画で人妻を演じたケイト・ブランシェットは、どんな役柄を演じても『ロード・オブ・ザ・リング』のガラドリエル様のような神々しさがあって、それはエリザベス1世のような高貴な人間を演じれば、そのまんまその役柄に重みを与えることができるし、『ブルージャスミン』のジャスミンのような痛い女を演じれば、痛さが下品にまで落ち込まないで女としての最低のラインをキープすることができるし、この『キャロル』でも、女性同士のカップルとして可愛らしくて華奢なルーニー・マーラの相手役としてはうってつけの凛とした男前な佇まいを醸し出していた。

ラストシーンで、ルーニー・マーラと視線が合うケイト・ブランシェットの目に背筋がゾクッとした。まるでローレン・バコールの「The Look」だ。なんて恰好良い女優なんだろう。

→トッド・ヘインズ→ケイト・ブランシェット→アメリカ/2015→ユナイテッド・シネマ浦和→★★★★

オデッセイ

監督:リドリー・スコット
出演:マット・デイモン、ジェシカ・チャステイン、クリステン・ウィグ、マイケル・ペーニャ、ショーン・ビーン、ケイト・マーラ、セバスチャン・スタン、アクセル・ヘニー、キウェテル・イジョフォー
原題:The Martian
制作:アメリカ/2015
URL:http://www.foxmovies-jp.com/odyssey/
場所:109シネマズ木場

有人火星探査から一人取り残された宇宙飛行士の生存をかけた闘いの映画。

映画のストーリーには、人を安易に感動させられる「鉄板なストーリー」があって、「難病もの」とか「子供をダシに使うもの」とか「動物もの」とか、まあ、いろいろあるんだけど、「生還もの」もそのひとつ。『オデッセイ』はその「生還もの」で、そこにさらにいろんな「鉄板な要素」が加味されていて、てんこ盛り状態になっている映画だった。たとえば、一人でなんでも出来てしまう「居残り佐平次もの」(勝手に『幕末太陽傳』から名付けました)とか、古い技術が危機を救う「アンチ・レガシーもの」(これも勝手に名付けています)とか、みんなの善意が一人を救う「キャプラもの」(『素晴らしき哉、人生!』から!)とか、ここまで畳みかけられたら感動しないわけがない!

と云うわけで、とても楽しめる映画でした。でも、ひねくれものの自分としては、ここまで鉄板の要素を並べられるとかえって鬱屈が溜まってしまって、最後は救出に失敗したマット・デイモンが永遠に火星の周りを回る衛星となってしまって、ああ、マット・デイモンは星になってしまったのね、と地球からみんなが拝むブラックユーモアなラストが欲しいとおもったりしてしまいました。

→リドリー・スコット→マット・デイモン→アメリカ/2015→109シネマズ木場→★★★☆

白鯨との闘い

監督:ロン・ハワード
出演:クリス・ヘムズワース、ベンジャミン・ウォーカー、キリアン・マーフィー、トム・ホランド、ブレンダン・グリーソン、ベン・ウィショー、ミシェル・フェアリー、フランク・ディレイン、ポール・アンダーソン
原題:In the Heart of the Sea
制作:アメリカ/2015
URL:http://wwws.warnerbros.co.jp/hakugeimovie/
場所:109シネマズ木場

原題の「In the Heart of the Sea」の邦題を「白鯨のいた海」から「白鯨との闘い」に変更したのは、この映画のアクションの要素をなるべく強調しようとした魂胆が配給会社の宣伝部にあって、なぜアクションの要素が強いと映画がヒットする可能性が高くなると配給会社がおもうのかはよくわからないのだけれど、とにかくハーマン・メルヴィルの小説「白鯨」を知らなくとも「白鯨」との闘いがメインとなるようなアクション映画であることを印象づけようとした結果のタイトルだったとおもう。

ただ、それを鵜呑みにして映画を観に行くと、あれ? になる。たしかに「白鯨」との闘いは出てくる。CGを使った迫力のあるアクションシーンだ。でも、この映画はそれがメインではなく、「白鯨」によって沈没させられた捕鯨船エセックス号の乗組員がいかにして過酷な漂流から帰還するのかがポイントとなる映画だった。「白鯨との闘い」のイメージで映画を見てしまうと、そしてジョン・ヒューストン監督の1956年の映画『白鯨』を想像しながら見てしまうとまるっきり腰砕けになってしまう。どちらかと云うとアクション映画ではなくて、サバイバル系の映画だった。

映画の後半は海を漂流する乗組員の生き残るためのサバイバル生活が中心となって、人肉を喰うことがストーリーの中心となって行く。が、その描写が中途半端なので、アクションを見るつもりだった「腹」は収まりきらない。ああ、少なくとも、『ゾンビ』ばりの人肉がぶりつき描写が欲しかった、とおもってしまうほど、高揚した気持ちの落ち着きどころがなくなってしまった。

邦題は「ハート・オブ・ザ・シー」で良かった。

→ロン・ハワード→クリス・ヘムズワース→アメリカ/2015→109シネマズ木場→★★★

ヤクザと憲法

監督:圡方宏史
出演:二代目東組二代目清勇会のみなさん
制作:東海テレビ放送/2015
URL:http://www.893-kenpou.com
場所:ポレポレ東中野

まわりから「観ろ!」と勧められていた『ヤクザと憲法』を観た。

大阪の堺市にある二代目東組二代目清勇会の事務所にカメラが入って行くところから映画がはじまる。そこにはどんなにいかつい面々が揃っているんだろうかと興味津々に見るも、若頭がちょっとドスの利いている風貌以外はなんだかフツーのおじさんばかり。組長も60歳代には見えない若いカジュアルな服装のただのおじさんで、両手をポケットに入れたままひょいひょいと事務所に入ってくる。住み込みの若い衆も落ちこぼれの高校生のようなトッポイにいちゃんで、滑舌は悪いは、気が利かないは、使える組員にはまったく見えない。これが今のヤクザなのか! とびっくりするぐらいに拍子抜けしてしまった。『仁義なき戦い』の世界からはすでにほど遠いところまで来てしまってる。

1992年(平成4年)3月1日に施行された「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」(通称、暴対法、暴力団対策法、暴力団新法)によって、いわゆる暴力団に対する警察の締めつけが厳しくなった。それは、昔の仁侠映画のような「かたぎには迷惑をかけない」ヤクザの世界から、抗争によって一般人に犠牲者を出したり、覚せい剤の売買に手を出したりするヤクザの世界に変貌した結果だとおもう。でも、この映画の中でも飲食店のおばちゃんが「警察は何もしてくれない、でも彼ら(ヤクザの人びと)は助けてくれる」と云っているような、社会の底辺にいるような人たちを助けたり、義務教育から落ちこぼれた不良を救う受け皿のような役割がまだまだあるんだとおもう。それが暴力団対策法によって弱体化させられて機能しなくなっただけでなく、ヤクザの組員に対しても人権さえ無視したような、ちょっとあまりにも締め付けすぎているきらいがある。

と、この映画は、ヤクザ寄りに描いている。事務所にがさ入れに入った刑事のほうこそが「悪」に見えるような作りになってる。最後の清勇会の組長の「ヤクザをやめて、誰が受け入れてくれる?」って言葉にも、そうだよな、とヤクザに温情的になってしまう。とはいえ、そこまでヤクザに肩入れしてもいいものかどうか。なんとも複雑な映画だった。

→圡方宏史→二代目東組二代目清勇会のみなさん→東海テレビ放送/2015→ポレポレ東中野→★★★★

ブリッジ・オブ・スパイ

監督:スティーヴン・スピルバーグ
出演:トム・ハンクス、マーク・ライランス、エイミー・ライアン、アラン・アルダ、オースティン・ストウェル、ドメニク・ランバルドッツィ、セバスチャン・コッホ、マイケル・ガストン、ピーター・マクロビー、スティーヴン・クンケン、ジョシュア・ハート、エドワード・ジェームズ・ハイランド、マルコ・チャカ
原題:Bridge of Spies
制作:アメリカ/2015
URL:http://www.foxmovies-jp.com/bridgeofspy/
場所:109シネマズ木場

まだアメリカとソ連が冷戦だったころ、その冷戦を題材としたスパイ映画がいくつか作られて、『寒い国から帰ったスパイ』とか『鏡の国の戦争』とか、どの映画も西と東の国境によって分断された人間同士の愛情や友情が切なく描かれていて、人と人との関係にはまったく意味をなさない国のイデオロギーの違いによる理不尽な引き裂かれ方がセンチメンタルな描写を過度に引き立てているような映画ばかりだった。でも、すでにベルリンの壁は崩壊してしまって、そのような哀愁を帯びたスパイ映画はもう作られないんだろうなあとおもっていたところに、スピルバーグ+コーエン兄弟の冷戦スパイ映画が突然現れた。

コーエン兄弟によるシナリオの構成力も素晴らしいけど、やはり何よりも、自分は国境が大好きなんだなあ、と改めてわかった。島国の日本人には味わえない地続きの国境は、その国境をまたぐ一歩がもしかすると人生を大きく変える意味を持っていて、今までの冷戦スパイ映画と同じように西と東の分断によってそれがさらに強調されて描かれている部分に胸が締めつけられるおもいで映画を見てしまった。西ベルリンと東ベルリンの国境でスパイの引き渡しが行われるシーンで、弁護士のトム・ハンクスがソ連に戻される東側のスパイのマーク・ライランスに「ソ連側は君が西側に何もバラさなかったと理解しているのか?」と聞いて、「それは引き渡された後、抱擁されて迎えられるか、ただ単に車の後部座席に乗せられるかでわかる」と返して、マーク・ライランスが抱擁されることなく静かに後部座席に乗せられるところが遠くに見えるシーンには、もう、涙、涙だった。なんて、切ないシーンなんだ。

例えソ連のスパイであってもアメリカは公平な司法を行うのだ、と云う喧伝のために仕組まれた裁判は、無理やりあてがわれた弁護士のトム・ハンクスによる空気を読まない無垢な正義感によって少なからず混乱し、そのあいだに弁護士のトム・ハンクスと東側のスパイのマーク・ライランスの関係が少しずつ育って行き、その関係を大げさにクローズアップすることなく静かに見せるところがとてもコーエン兄弟らしかった。国境でのスパイの引き渡しのシーンも若干のサスペンスはあるものの、二人の関係が大げさに描かれないからこそ、とても切ないシーンに仕上がっていた。

→スティーヴン・スピルバーグ→トム・ハンクス→アメリカ/2015→109シネマズ木場→★★★☆

スター・ウォーズ/フォースの覚醒(2D日本語吹き替え版)

監督:J・J・エイブラムス
出演:ハリソン・フォード、マーク・ハミル、キャリー・フィッシャー、アダム・ドライバー、デイジー・リドリー、ジョン・ボイエガ、オスカー・アイザック
原題:Star Wars: The Force Awakens
制作:アメリカ/2015
URL:http://starwars.disney.co.jp/movie/force.html
場所:109シネマズ木場

1977年の最初の『スター・ウォーズ(4 新たなる希望)』が大ヒットしたことから、監督のジョージ・ルーカスがその最初の3部作(新たなる希望、帝国の逆襲、ジェダイの帰還)の前の世代と後の世代にあたるストーリーの構想を発表し、その前の世代はジョージ・ルーカス自身の監督によって実現(ファントム・メナス、クローンの攻撃、シスの復讐)されたが、「シスの復讐」の公開をもって『スター・ウォーズ』シリーズは「全6部作」でいったん完結すると発表されていた。

しかし、ウォルト・ディズニー・カンパニーが『スター・ウォーズ』シリーズの制作会社であるルーカスフィルムを買収したことから後の世代のシリーズを制作続行することになり、J・J・エイブラムス監督によって無事ここに『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』が公開されることになった。

J・J・エイブラムスの監督作品を『スター・トレック』『SUPER8/スーパーエイト』『スター・トレック イントゥ・ダークネス』と見て来て、どの映画もやたらとVFXにばかり重きを置いたガサツなうるさい映画にしか見えず、特に新しい『スター・トレック』シリーズは昔の『スター・トレック』シリーズが精神的な内面に重きを置いていたのに比べるとその大ざっぱなストーリーに憤慨しか覚えず、申し訳ないけど、ああ、これは肌の合わない監督だなと勝手に烙印を押してしまった。

だから今回の『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』もさっぱり期待が持てずに公開からズルズルと今の時点にまで観ずに来てしまった。それでやっと重い腰を上げて観たわけだけど、これが、おもったより悪くなかった。考えてみると『スター・ウォーズ』シリーズはそんなにきめ細やかな映画じゃなかったのだ。だからJ・J・エイブラムスにぴったりの映画だったのだ。でも、一番最初の『スター・ウォーズ(4 新たなる希望)』とストーリーの骨格がまったく同じってのはどういうことなんだろう? 新鮮味がまったくなく、新たな驚きがまったくない。まあ、第3世代のシリーズの導入部としては無難なオープニングなのかな。

→J・J・エイブラムス→ハリソン・フォード→アメリカ/2015→109シネマズ木場→★★★

サウルの息子

監督:ネメシュ・ラースロー
出演:ルーリグ・ゲーザ、モルナール・レべンテ、ユルス・レチン、トッド・シャルモン、ジョーテール・シャーンドル、
原題:Saul fia
制作:ハンガリー/2015
URL:http://www.finefilms.co.jp/saul/
場所:新宿シネマカリテ

第2次世界大戦中のドイツの強制収容所では、ガス室に送られたユダヤ人たちの死体を処理する仕事も選別されたユダヤ人たちが行っていた。彼らは「ゾンダーコマンド」と呼ばれ、その「ゾンダーコマンド」のサウルが主人公のこの映画『サウルの息子』は、ほとんどのシーンでカメラがサウルのそばにピッタリと寄り添って、それも被写界深度が極端に浅いので、サウルから離れたものはボケいて何も見えない。だからまるでサウルの行動を追体験するような感覚に陥って、強制収容所で行われたナチスによる所業をリアルに経験するような映画になっていた。

ある日サウルはガス室から息のまだある子供を見つける。すぐに医師によって絶命させられたその子供をサウルは自分の息子だと云い、収容所の中からユダヤのラビを見つけて丁重に葬りたいとして死体を盗み出す。

映画のタイトルはここから来ている。でも、どう考えてみても、その子供は彼の息子には見えない。あまりにもその子供に対するサウルの感情がフラットすぎたからだ。周りの仲間からも、お前に息子はいないだろう、と云われる。おそらく、この子供はユダヤの子供の象徴にすぎなかったんだろうとおもう。

と云うようなことを考えながら映画を見終わって、帰ってからネットで検索したら町山智浩もそのようなことを云っていた。

『サウルの息子』の息子とラストについて – 映画評論家町山智浩アメリカ日記

映画のラストに「希望」のようなシーンを見せてはいるけど、このリアル強制収容所を追体験した身としてはすっかり気分が悪くなってしまった。

→ネメシュ・ラースロー→ルーリグ・ゲーザ→ハンガリー/2015→新宿シネマカリテ→★★★☆

神様なんかくそくらえ

監督:ジョシュア&ベニー・サフディ
出演:アリエル・ホームズ、ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ、バディ・デュレス、ロン・ブラウンスタイン
原題:Heaven Knows What
制作:アメリカ、フランス/2014
URL:http://heaven-knows-what.com
場所:新宿シネマカリテ

邦画の『恋人たち』『ハッピーアワー』と来て、その延長線上にあるようにも見えてしまうアメリカのインディペンデント映画『神様なんかくそくらえ』を観た。『恋人たち』と『ハッピーアワー』がとても素晴らしかったので、『神様なんかくそくらえ』も同じように当たりなんじゃないかと予想したのだ。

男から「死ねるのなら、死んでみろ!」と云われて、女が手首を切って血があふれ出すシーンから映画は始まった。

うわっ!と、まずはこれで精神的な打撃を受けてしまった。自分にとって、これはきつかった。そこから立ち直れないでいるうちに、冨田勲のシンセサイザーがその傷ついた精神を逆撫でするような音楽に聞こえてしまってさらに気分が悪くなってしまった。

こうなると何もかもが不快だった。映画の中のどの登場人物に対しても感情を寄せることが出来なくなってしまった。路上生活に落ち込んでしまう人たち、そしてそこからクスリに手を出してしまう人たちは、我々の社会構造が作り出してしまう澱のようなものだと理解していながらも、彼らの精神の弱さ、幼稚さを攻撃したくなるような気分にさせられてしまった。

この映画の中の主人公ハーリーを演じたアリエル・ホームズは、自分自身のニューヨークでの路上生活を元にした手記「マッド・ラブ・イン・ニューヨークシティ」を書き上げ、その映画化の際には演技経験が無いにもかかわらず主人公の自分自身を演じることになった。彼女自身にとってはどん底から抜け出せるきっかけとなって良かったとはおもうけど、まあ、なんとも、個人的には不快な映画だった。

→ジョシュア&ベニー・サフディ→アリエル・ホームズ→アメリカ、フランス/2014→新宿シネマカリテ→★★

ハッピーアワー

監督:濱口竜介
出演:田中幸恵、菊池葉月、三原麻衣子、川村りら、申芳夫、三浦博之、謝花喜天、柴田修兵、出村弘美、坂庄基、久貝亜美、田辺泰信、渋谷采郁、福永祥子、伊藤勇一郎、殿井歩、椎橋怜奈
制作:神戸ワークショップシネマプロジェクト/2015
URL:http://hh.fictive.jp/ja/
場所:シアター・イメージフォーラム

濱口竜介監督による「即興演技ワークショップ in Kobe」から生まれたこの映画は、主人公となる4人の女性も含めたすべての人に演技経験がなく、5ヶ月間の演技ワークショップを受けただけで撮影された映画だった。だから、それぞれの役者の演技はとてもつたない。プロの演技ではまったくなくて、表現力はまったくない。でも、セリフに抑揚がなくても、表情の変化に乏しくても、その演技を真正面から捉えた長回しのシーンの連続によって、この映画の世界が充分に成り立って行っている。これは小津安二郎やロベール・ブレッソンの映画を見た時にも感じたことだけど、映画における役者の演技と云うものは音楽や小道具や衣装と同じように一つのパーツに過ぎなくて、映画が作り出そうとしている世界にそれが巧くはまっていれば、過剰に演劇的な芝居も必要なく、ドキュメンタリー風の自然な佇まいもまったく必要ない。『ハッピーアワー』が作り出したぎこちない演技の世界にはまりこんで、総尺5時間17分もの長さをまったく感じることはなかった。

メインとなる4人の女性の性格がしっかりと描き分けられている部分にも驚いた。キャラクターの設定を明確に打ち出すには演技によるところがずいぶんと大きいと今までずっとおもって来た。ところが『ハッピーアワー』ではそれが充分になされている。もちろん長尺によるところも大きいのだろうけど(この映画は長尺以外にあり得ないのだろうけど)、シナリオにおける人間関係とセリフがしっかりと書き込まれていれば演技は二の次になることがよくわかった。

イングマル・ベルイマンの『ファニーとアレクサンデル』(5時間40分)やフレデリック・ワイズマンの『臨死』(5時間58分)の時もそうだったけど、長い映画にはまりこむとそこからなかなか抜け出せなくなる。『ハッピーアワー』の「あかり」や「純」や「桜子」や「芙美」の顔がふと気が付くと今でも脳裏によみがえって来る。ああ、これはパッケージが欲しいな。Blu-rayになるんだろうか。

→濱口竜介→田中幸恵→神戸ワークショップシネマプロジェクト/2015→シアター・イメージフォーラム→★★★★

アンジェリカの微笑み

監督:マノエル・デ・オリベイラ
出演:リカルド・トレパ、ピラール・ロペス・デ・アジャラ、レオノール・シルベイラ、ルイス・ミゲル・シントラ、アナ・マリア・マガリャーエス、イザベル・ルト、サラ・カリーニャス、リカルド・アイベオ、アデライデ・テイシェイラ
原題:O Estranho Caso de Angélica
制作:ポルトガル、スペイン、フランス、ブラジル/2010
URL:http://www.crest-inter.co.jp/angelica/
場所:ルシネマ

ポルトガルのマノエル・デ・オリベイラ監督が昨年の4月に106歳で亡くなった。その前の年の105歳で『レステルの老人』を完成させて、まだまだ最高齢監督として映画が撮れるんじゃないかとおもっていた矢先だった。おそらくその追悼の意味も込めて、2010年に作られた『アンジェリカの微笑み』が公開されることになった。

『アンジェリカの微笑み』を観ているうちに、これは日本の怪談噺だなあ、とおもって、帰ってからネットを検索したら、そのことに言及している人がたくさんいた。でも、「牡丹燈籠」や「雨月物語」よりも、もっとぴったり似ているストーリーがあったような気がするけど、それがいったい何だったかのかまったく思い出せない。

101歳の時に撮った映画であることを考えると、やはりそこにはマノエル・デ・オリベイラ監督自身の死生観が色濃く反映されているような気がする。「死」と云うものは、できることならこの映画のような甘美なものでありたいなあ。「死」を拒絶するのではなくて、「死」に取り込まれたい!

→マノエル・デ・オリベイラ→リカルド・トレパ→ポルトガル、スペイン、フランス、ブラジル/2010→ルシネマ→★★★☆