監督:アリ・アスター
出演:ホアキン・フェニックス、パティ・ルポーン、ゾーイ・リスター=ジョーンズ、ネイサン・レイン、エイミー・ライアン、スティーヴン・マッキンリー・ヘンダーソン、カイリー・ロジャース、パーカー・ポージー、ヘイリー・スクワイアーズ、ドゥニ・メノーシェ、マイケル・ガンドルフィーニ、リチャード・カインド
原題:Beau Is Afraid
制作:アメリカ/2023
URL:https://happinet-phantom.com/beau/
場所:MOVIX川口

いままでアリ・アスターの作品を『ヘレディタリー/継承』『ミッドサマー』と観てきて、映画を楽しみながらも突然起きるとてつもなく残虐なシーンにあまりにも衝撃を受けたので、アリ・アスターの新作と云うだけで、またそのような衝撃的なシーンがいつ起きるのだろうかとドキドキしながら『ボーはおそれている』を観てみた。

おそるおそる映画を観はじめると、最初から残虐的なシーンがありながらも、自分がアリ・アスターの映画をおそれている以上に主人公のボー(ホアキン・フェニックス)がすべてのものに怯えて、小動物のようにビクビクしているので、そこに安心感が芽生えると云うのか、反動で笑ってしまうような気分にさせられてしまった。なるほど、『ボーはおそれている』をホラー・コメディ映画と分類しているのは、そんなところに所以があったのか。

でも、ボーの自律神経が乱れているような状態を3時間も見せられて、それが母親による支配が原因だとわかったとしても、これはいったい何の映画なのだ? の疑問が最後まで残ってしまった。

映画を観終わったあとにYouTubeの町山智浩の解説を見ると、この映画はアリ・アスターがユダヤ人であることからくる宗教的な映画だと云う。ユダヤ社会では母親が子供に対してすべてをコントロールしようとする傾向があるようで、加えてユダヤ教の厳しい戒律を守ることのできない葛藤なども絡んで、複雑性PTSDのような精神疾患を発症してしまった男の映画だと云うことがわかってきた。そこにユダヤ文学で有名なフィリップ・ロスの小説にもインスパイアされたイメージも加わって、日本人にはわかりにくい、得体のしれない映画に出来上がっていた。

まあ、ユダヤ教でなくとも、たとえ日本人であったとしても、親から支配を受けている子供はいるとおもう。最近のNHK「クローズアップ現代」で特集していた親から教育虐待(子どもの心身が耐えられる限界を超えて親が教育を強制すること)を受けている子供なども、おそらくこのボーのような状態なのかもしれない。でも、そのような精神状態を映画で疑似体験させられもなあ。映画がアメリカでコケた理由もわからなくもない。

町山智浩の解説でも云っていたけれど、この映画の脚本が完成したのはもっと前だろうから、アリ・アスター自身にそんな意識はなかったのだろうけれど、いまこの映画を観るとどうしてもボーの母親にイスラエルを重ねて見てしまう。となると、ますます精神的に滅入る映画で、そこはアリ・アスターの真骨頂だった。

→アリ・アスター→ホアキン・フェニックス→アメリカ/2023→MOVIX川口→★★★☆

監督:マシュー・ヴォーン
出演:ブライス・ダラス・ハワード、ヘンリー・カヴィル、サム・ロックウェル、ブライアン・クランストン、キャサリン・オハラ、デュア・リパ、アリアナ・デボーズ、ジョン・シナ、サミュエル・L・ジャクソン
原題:Argylle
制作:イギリス、アメリカ/2024
URL:https://argylle-movie.jp
場所:109シネマズ菖蒲

マシュー・ヴォーンが作るアクション映画のテンポが好きなので、『キングスマン』と同じノリだろうと新作の『ARGYLLE/アーガイル』も観てみた。

スパイ小説「アーガイル」シリーズの著者である小説家エリーは、小説の内容が現実に進行している陰謀に似すぎているために事件に巻き込まれてしまう、と云う「つかみ」はOKなんだけれど、エリーを演じているブライス・ダラス・ハワードがあまりにもアクションに似合わない体型をしているので、そこばかりが気になってしまった。もちろんそこのギャップを楽しめれば良いのに個人的にはダメでした。

映画の終わり方からして、続編がある匂いがプンプンしているけれど、そこまでそれぞれのキャラクターに魅力があるとはおもえない。エリーの愛猫であるアルフィーの活躍の場ももうちょっと欲しいなあ。

→マシュー・ヴォーン→ブライス・ダラス・ハワード→イギリス、アメリカ/2024→109シネマズ菖蒲→★★★

監督:ビクトル・エリセ
出演:マノロ・ソロ、ホセ・コロナド、アナ・トレント、ペトラ・マルティネス、マリア・レオン、マリオ・パルド、エレナ・ミケル、アントニオ・デチェント、ホセ・マリア・ポウ、ソレダ・ビジャミル、フアン・マルガージョ、ベネシア・フランスコ
原題:Cerrar los ojos
制作:スペイン/2023
URL:https://gaga.ne.jp/close-your-eyes/
場所:ユナイテッド・シネマウニクス南古谷

日本でビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』が公開されたのは1985年だった。今でもシネ・ヴィヴァン・六本木に観に行ったことをありありとおもい出せる。同時にアナ・トレントの大きな瞳のことも。

『ミツバチのささやき』が作られたのは1973年。それからビクトル・エリセは『エル・スール』(1983年)『マルメロの陽光』(1992年)しか撮ってなくて、今回の『瞳をとじて』で長編映画は4作目。『ミツバチのささやき』が作られてから51年が経っていて、日本公開からもすでに39年が経っている。でも寡作の監督の作品は、作られた間隔が長いわりには、なぜか時間が凝縮して感じられる。『マルメロの陽光』を観たのがもう30年前になるとはとても信じられない。

今回のビクトル・エリセの『瞳をとじて』は、22年前の撮影中に失踪した俳優をめぐるテレビ番組をきっかけに、その番組に出演した映画監督が視聴者からの情報を元に俳優の居場所を突き止めていくストーリーだった。

俳優が失踪したことによって完成しなかった映画のシーンからはじまるこの映画は、映画フィルムと云うものが過去を定着させる意味合いも含んでいることから、そこから受けるノスタルジーな感覚がとても強烈で、さらに失踪した俳優の娘役をアナ・トレントが演じていることからも、ビクトル・エリセが映画を作ってきたゆるやかな時間を同時におもい起こさせるものになっていた。

ノスタルジーは簡単に人の感情を揺さぶることができるので、57歳になったアナ・トレントに「Soy anna」と云わせるところは、それはズルイよ、と感じながらも、どうしたって目がウルウルにならざるを得ない映画だった。

→ビクトル・エリセ→マノロ・ソロ→スペイン/2023→ユナイテッド・シネマウニクス南古谷→★★★★

監督:ヨルゴス・ランティモス
出演:エマ・ストーン、マーク・ラファロ、ウィレム・デフォー、ラミー・ユセフ、ジェロッド・カーマイケル、クリストファー・アボット、キャサリン・ハンター、ジェロッド・カーマイケル、マーガレット・クアリー、スージー・ベンバ
原題:Poor Things
制作:イギリス、アメリカ、アイルランド/2023
URL:https://www.searchlightpictures.jp/movies/poorthings
場所:ユナイテッド・シネマ浦和

ヨルゴス・ランティモスの映画はいつも不快だ。とても嫌な気分にさせられる。この嫌な気分が何なのかと考えると、一般的な社会通念を押し付けられて生きて来た自分の存在にいつの間にか気付かされてしまう。人間の根底にある獣の本性を抑え込んで、上品ぶって取り繕っている我々の社会的な価値観を、そんなのはクソだ! と見透かされてしまうところが嫌な気持ちにさせられる原因のような気がする。昨今の正義を振りかざすSNSの蔓延で、ますますヨルゴス・ランティモスの映画が身にしみるようになってきている。

昨年のカンヌ映画祭のパルムドール賞を獲ったヨルゴス・ランティモスの『哀れなるものたち』は、ウィレム・デフォー演じる外科医であるゴッドによって、自分が産んだ赤ん坊の脳を移植させられてしまうエマ・ストーン演じるベラと云う女性が主人公だった。自殺した身重のベラをたまたま救い出した「マッド・サイエンティスト」ゴッドによる脳移植実験がこの映画のテーマだった。

人間の赤ん坊と云うものは、まだ獣の本性むき出しの状態で、おもいついた事を何でも行動に移すし、気持ちの良いことは追求するし、嫌いなものはとことん拒否する。成人の体を持つ人間がその赤ん坊の知能でいることをゴッドは注目し、獣の本性がまだ残る状態でありながらも知性を身に着けていくさまを、ヨルゴス・ランティモスの初期の映画『駕籠の中の乙女』(2009)のように、自分の屋敷内に閉じ込めたまま、社会的な常識に毒されないように観察して行く。

ところが、ゴッドの教え子であるラミー・ユセフ演じる医学生マックス・マッキャンドルスとベラを結婚させる段階で、その契約書作りに関わったマーク・ラファロ演じる弁護士ダンカン・ウェダバーンとベラは駆け落ちしてしまう。ゴッドはこれを容認していたようなふしがあって、可愛い子には旅をさせよ、さながら、その目で世間を観察することでベラは、獣のような欲望はそのままにますます人間として進化していく。

そのベラの進化をさらに飛躍させたのは、リスボンからアレキサンドリアへ向かうクルーズ船の中で知り合った老婆マーサとその連れ合いの若い黒人ハリーだった。この二人には達観したような知性があって、上流社会から見れば下品とも取られるベラの発言をも包みこんでしまう。そして黒人ハリーの影響で哲学書を読むようになったベラは世間を見る目も変化し、アレキサンドリアの貧しい人たちに心を痛めるようになる。たまたまクルーズ船のカジノで大勝ちしたダンカンのお金があったので、それをすべて貧しい人たちに与えようとクルーズ船の乗員に手渡してしまう。もちろんそのお金は貧しい人たちには渡らずに乗員の懐に入ってしまうのだろう。このようにベラには相手を疑わない無垢な心がまだ残っていて、同時の獣の心も残っていて、そこにプラスアルファで知性もが備わっていく過程が面白い。

無一文になったベラとダンカンはパリにたどり着く。そこでベラはお金を稼ぐために娼婦になる。娼婦にまで「身を落とした」ベラが気に食わないダンカンは激怒する。でも「身を落とした」とはまったく感じないベラは、あっけらかんとダンカンと男性客のセックスの上手さを比較したりする。ベラにとって娼婦とは単純にお金を稼ぐための手段でしかなくて、同時に性欲をも満たすことのできる格好の職業だった。娼婦を取り仕切るスワイニー(キャサリン・ハンター!)に対して、相手を選ぶのは男性客ではなく娼婦側からするのが良いんじゃない? なんて無垢な心のまま働き方改革までしようとする。

娼婦の同僚から社会主義の集会に誘われるようになったベラはまた一段と進化して行き、凡人でしかないダンカンとの比較から、このベラこそが人間の本来あるべき姿ではないかと云う、この映画のテーマが見えてくる。

そしてこのベラとダンカンの駆け落ちの旅は、ウィレム・デフォー演じるゴッドが末期の病気になっていると知らされることで結末を迎える。同時に、ベラを自殺に追い込む原因を作った元夫も登場する。すでに完全な人間として変貌しつつあったベラはその元夫を簡単に撃退し、その元夫に動物の脳を移植して庭で飼うことにより、亡くなったゴッドの実験を引き継くこととなって映画は結末を迎える。

今回のヨルゴス・ランティモスの映画も不快な映画だった。でも途中から、エマ・ストーンのベラに人間の本質を見出すようになって、すごい映画だなあ、の感想に変わって行く。としても、やっぱり不快な映画には違いはなくて、その微妙な気持ちの揺れが自分にとってのヨルゴス・ランティモスの映画だった。

→ヨルゴス・ランティモス→エマ・ストーン→イギリス、アメリカ、アイルランド/2023→ユナイテッド・シネマ浦和→★★★★

監督:ウディ・アレン
出演:ウォーレス・ショーン、ジーナ・ガーション、ルイ・ガレル、エレナ・アナヤ、セルジ・ロペス、タミー・ブランチャード、クリストフ・ヴァルツ、スティーヴ・グッテンバーグ、リチャード・カインド
原題:Rifkin’s Festival
制作:アメリカ、スペイン、イタリア/2020
URL:https://longride.jp/rifkin/
場所:MOVIXさいたま

ハーヴェイ・ワインスタインのセクハラ暴露をきっかけに起きた「#MeToo」運動の余波を受けたウディ・アレンの騒動があって、そのあとに撮った『サン・セバスチャンへ、ようこそ』(原題:Rifkin’s Festival)は日本での公開は難しいのかとおもっていたら、いつのまにか今年の公開が決まっていた。人によってはウディ・アレンと聞いて、いまの日本での松本人志のような不快感を持つ人もいるのだろうけれど、1983年の『カメレオンマン』以降ずっと劇場公開を追いかけてきた身にとっては観に行かざるを得ない。

ウディ・アレンの『サン・セバスチャンへ、ようこそ』は、彼が尊敬してやまないヨーロッパの監督たち、フェリーニやベルイマン、トリュフォーやゴダールたちへのリスペクトを示す映画だった。でも、それとなくオマージュを捧げる映画ではなくて、それぞれの監督の有名な映画のワンシーンを再現することに何の意味があるのかはちょっとわからなかった。ベルイマンのファンとしては『野いちご』や『仮面/ペルソナ』『第七の封印』のシーンが出てくるのは楽しいのだけれど、だから何? の疑問は最後までつきまとってしまった。

「#MeToo」運動の騒動後の映画であっても『サン・セバスチャンへ、ようこそ』はいたって普通のウディ・アレンの映画だった。一箇所だけ、ワインスタインと云う名前の女性の記者が出たところはびっくりしたけれど、それ以外は主人公に自分を投影させたいつもの映画だったのは安心できたと云うか、これで良いのかと云うおもいも少し。

次回作は『Coup de chance』(2023)。全編フランス語の映画だそうだ。

→ウディ・アレン→ウォーレス・ショーン→アメリカ、スペイン、イタリア/2020→MOVIXさいたま→★★★☆

監督:アキ・カウリスマキ
出演:アルマ・ポウスティ、ユッシ・バタネン、ヤンネ・フーティアイネン、ヌップ・コイブ、アンナ・カルヤライネン、カイサ・カルヤライネン
原題:Kuolleet lehdet
制作:フィンランド、ドイツ/2023
URL:https://kareha-movie.com
場所:新宿シネマカリテ

先日、NHKの宮崎駿を追いかけるドキュメンタリーを見ていたら、高畑勲が、映画監督に引退なんかない、と云っていた。映画監督と云う職業は生涯映画監督であって、撮りたければ撮ればいいし、撮りたくなければ撮らなければいい。だからアキ・カウリスマキだって引退宣言をする必要なんてまったくなかった。映画を作るためのパワーは極限にまで達する可能性もあるので、作り終わって疲れ果てた結果、もう作りたくない、とおもうのは当たり前だし、月日が流れれば映画現場に戻りたくなるのも必然だし。

でも引退宣言と云う区切りをつける行為は映画作りに何かしら影響を与えるようで、アキ・カウリスマキが6年ぶりに撮った『枯れ葉』にも、あれ? 今までと違うなあ、とおもうシーンがあった。

アキ・カウリスマキの映画は、我々の現実世界の機微を寓話として置き換えて描いていたので、映画を観ている例え日本人である自分たちの生活にオーバーラップする部分があったとしてもそれは普遍的なところとリンクしているだけであって、そのものずばりの現実世界を突きつけられることはなかった。ところが『枯れ葉』には、ラジオから実際のウクライナの情勢を伝えるニュースが流れて来るシーンがいくつかあった。いつものとおりのアキ・カウリスマキの世界に浸っていたら、突然現実世界に引き戻される感覚に陥ってしまって、その戸惑いを最後まで引きずってしまった。

アキ・カウリスマキが映画現場に戻りたくなったきっかけはウクライナ情勢に心を痛めた結果だったのかなあ。だから、この映画のようなささやかなラブストーリーを撮ったのか。それはそれで良かったのかもしれないし、微妙にアキ・カウリスマキの映画ではなくなっている気もするし。

→アキ・カウリスマキ→アルマ・ポウスティ→フィンランド、ドイツ/2023→新宿シネマカリテ→★★★☆

監督:ポール・キング
出演:ティモシー・シャラメ(花村想太〈Da-iCE〉)、ケイラ・レーン(セントチヒロ・チッチ)、パターソン・ジョセフ(岸祐二)、マット・ルーカス(関智一)、マシュー・ベイントン(武内駿輔)、サリー・ホーキンス(本田貴子)、キーガン=マイケル・キー(長田庄平〈チョコレートプラネット〉)、ローワン・アトキンソン(松尾駿〈チョコレートプラネット〉)、ジム・カーター(平林剛)、トム・デイヴィス(石井康嗣)、オリヴィア・コールマン(松本梨香)、ヒュー・グラント(松平健)
原題:Wonka
制作:イギリス、アメリカ/2023
URL:https://wwws.warnerbros.co.jp/wonka/index.html
場所:109シネマズ菖蒲

今年はじめての映画はなぜかポール・キング『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』。それも日本語吹き替え版。

ティム・バートンが撮った『チャーリーとチョコレート工場』(2005)は、ティム・バートンらしさを控えめにしてロアルド・ダールの原作を忠実に映画化したために大ヒットを記録した。ティム・バートンらしさを控えめにしたと云っても、ロアルド・ダールの原作に出てくる問題児やウンパルンパが奇天烈なので、その描写にはティム・バートンらしさを発揮できてはいたけれど。

その『チャーリーとチョコレート工場』にはチラッとウィリー・ウォンカの子供時代のエピソードが出てくる。父親は厳格な歯医者で、甘いものは歯の敵、と云う父親からの抑圧が人物形成に影響している設定だった。このエピソードは原作にはなく、ティム・バートン&ジョン・オーガストの創作だった。

ウィリー・ウォンカの若き日を描いているポール・キング監督の『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』は、じゃあ、その前作の設定を引き継いでいるのかと云えば、まったくあらたな設定になっていた。亡き母親(サリー・ホーキンス)との約束が世界一のチョコレート店を開くモチベーションになっている設定だった。

どちらがロアルド・ダールの原作にマッチしているかと云えばそれはティム・バートン&ジョン・オーガスト版のほうで、ポール・キング版にはロアルド・ダールが得意とする(と云っても「チョコレート工場の秘密」と「あなたに似た人」に収められている短編集しか読んだことがないけれど)シニカルでブラックな部分があまりにも無さすぎた。ビターなほろ苦いチョコレートを期待したところ、甘々のチョコレートを出された感じ。

でも『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』には、オリヴィア・コールマンとか、サリー・ホーキンスとか、とても好きな俳優たちが出てきたので、まあ、それなりに楽しめる映画にはなっていた。日本語吹き替え版で観てしまったので、ティモシー・シャラメの歌声が聞けなかったのがちょっと残念だけれど。

→ポール・キング→ティモシー・シャラメ→イギリス、アメリカ/2023→109シネマズ菖蒲→★★★

今年、映画館で観た映画は42本。
その42本の中で良かった映画を10本に絞ると以下の通り。

イニシェリン島の精霊(マーティン・マクドナー)
エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス(ダニエル・クワン、ダニエル・シャイナート)
フェイブルマンズ(スティーヴン・スピルバーグ)
トリとロキタ(ダルデンヌ兄弟)
ザ・ホエール(ダーレン・アロノフスキー)
AIR/エア(ベン・アフレック)
TAR/ター(トッド・フィールド)
小説家の映画(ホン・サンス)
キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン(マーティン・スコセッシ)
PERFECT DAYS(ヴィム・ヴェンダース)

以上、観た順。
とくに『イニシェリン島の精霊』『ザ・ホエール』『TAR/ター』が突出して面白かった。
それにプラスして、今年最後に観た『PERFECT DAYS』もあとに尾を引く良い映画だった。

監督:ヴィム・ヴェンダース
出演:役所広司、柄本時生、中野有紗、アオイヤマダ、麻生祐未、石川さゆり、甲本雅裕、深沢敦、松居大悟、柴田元幸、犬山イヌコ、モロ師岡、あがた森魚、長井短、安藤玉恵、田中泯、三浦友和
原題:Perfect Days
制作:日本、ドイツ/2023
URL:https://www.perfectdays-movie.jp
場所:109シネマズ菖蒲

ヴィム・ヴェンダースが東京を舞台に役所広司を主役にして撮った映画。役所広司はこの映画で今年のカンヌ映画祭男優賞を受賞して話題になった。ところが、なかなか日本での配給が決まらずにヤキモキしたが、こうしてなんとかシネコンでも観られるようになって、109シネマズ菖蒲では年齢層高めの人たちが大勢詰めかけていた。

外国人監督が日本人を演出すると違和感いっぱいになるのがいつものことだけれど、さすがヴェンダース、小津安二郎の映画への造詣が深いこともあってか、まったく、何の違和感もなかった。

役所広司が演じるのは東京スカイツリーの近くにある古びたアパートで独り暮らしをしている無口なトイレ清掃員。早朝、近くの神社の掃き掃除の音で目覚め、歯を磨き、ヒゲを剃り、鉢植えに水をやり、つなぎの清掃服に着替えて、アパートの前の自動販売機で缶コーヒーを買ってから、ワゴン車で渋谷区の公衆トイレに向かう。ワゴン車の中で聴くのはオーティス・レディングやルー・リード、パティ・スミスなどの曲が入った古いカセットテープ。恵比寿東公園、鍋島松濤公園、はるのおがわコミュニティパーク、代々木深町小公園などにある公衆トイレの清掃を済ませたあとは、銭湯で身体を洗い、浅草地下商店街の飲み屋で「おかえり」の声をかけられたあといつもの酎ハイをひっかける。夜、寝る前には幸田文やパトリシア・ハイスミスの本を読み、寝付いたあとはまるで白黒の実験映画のような夢を見る。

と、毎日まるで判で押したような生活を送っている男を描く映画だった。同僚の若い清掃員、その彼の彼女になろうとしているような若い女、突然訪ねてきた姪、その母親(つまり男の妹)など、様々な人が関わりはするけれども、この男の背景はまったく語られることはなく、淡々と映画は進んでいく。でもそれがめちゃくちゃ面白かった。この男の背景を想像することがとても楽しかった。

たった一つの手がかりは、この男の妹が家出した娘(男の姪)を引き取りに運転手付きの高級車で迎えに来た時に、ちらっと自分たちの父親のことを話題にしたセリフだけ。自分がわからなくなって施設に入っているけれど、もう昔のような父では無いから面会に行ってあげて、と云うセリフだけだった。そこに、とても高圧的な父親に反発する息子を想像してしまった。反発にはそれを正当化する知識が必要なので、だからトイレ清掃員と云う職を持つ人物にしては似つかわしくない本棚やレアなカセットテープのコレクションがあるのじゃないか、と想像してしまった。

男が週末に行くバーのママ(石川さゆり)と元夫(三浦友和)のくだりはいらないかなあ、とはおもうのだけれど、石川さゆりの歌う「朝日のあたる家」が素晴らしいので、そこはやっぱり「あり」と云うことで。

→ヴィム・ヴェンダース→役所広司→日本、ドイツ/2023→109シネマズ菖蒲→★★★★

監督:リドリー・スコット
出演:ホアキン・フェニックス、ヴァネッサ・カービー、タハール・ラヒム、リュディヴィーヌ・サニエ、ベン・マイルズ、シニード・キューザック、ルパート・エヴェレット、ユセフ・カーコア、マーク・ボナー、イアン・マクニース
原題:Napoleon
制作:アメリカ、イギリス/2023
URL:https://www.napoleon-movie.jp
場所:109シネマズ菖蒲

ナポレオンを映画化した映画と云えば真っ先にアベル・ガンスの『ナポレオン』(1927)をおもい浮かべる。上映時間12時間にのぼるサイレント映画の大作で、3台のカメラで撮影された映像を3面のスクリーンに映すトリプル・エクラン(ポリビジョン)という方法で上映して当時は話題になったらしい。その後『ナポレオン』はアベル・ガンスによっていくつものバージョンが作られ、全部で20バージョン以上もあると云われている。その中のバージョンの一つが、1981年にフランシス・フォード・コッポラらの後援で世界各国で上映され、日本でも1982年にたしかNHKホールあたりで公開されたとおもう。それを観に行きたかったのだけれど、料金が高かったのか、抽選に外れたのか、何の理由だったのか忘れたけど行くことはかなわなかった。

ナポレオンほどの有名な人物を映画化した作品がこのアベル・ガンスの映画とロシアのサシャ・ギトリ版(1955)くらいしか無いのが不思議だった。でもそこに新たにリドリー・スコットの作品が加わった。

リドリー・スコットが撮る『ナポレオン』でナポレオンを演じるのがホアキン・フェニックスと聞いて、今までの自分の中にあったナポレオンのイメージにぴったりだ!とまずは直感で感じてしまった。どこか危険な雰囲気を漂わせるホアキン・フェニックスのようなイメージがナポレオンだけではなく、古今東西の傑出した専制支配者に対して持つ共通のイメージなのかもしれないのだけれど。

アベル・ガンス版『ナポレオン』の上映時間12時間に対して、リドリー・スコット版は158分。最近の映画は長い、長いと文句ばかり云ってしまうけれど、ナポレオンを描くには短かったのかもしれない。もしジョゼフィーヌ(ヴァネッサ・カービー)との関係だけに焦点を絞っているのであればこの尺でOKだったとおもう。だけど、もうひとつ、ナポレオンの気の弱さを掘り下げようとしていた形跡がある。ナポレオンが24歳のとき、新たな砲兵司令官となって作戦の指揮を取ったトゥーロン攻囲戦での、まるで嘔吐せんばかりの緊張を強いられた様子を強調して描いておきながら、なぜかその精神面での描き方がどんどんと尻窄みになってしまう。ナポレオンはいったい何で持って自己を支えて、そして何をも持って戦いのモチベーションを維持して突き進んで行ったのか、そのあたりの掘り下げが中途半端になってしまった。

と云っても、史劇大好き人間なので、ひとつも飽きることはなかった。できることなら、描かれなかった有名なトラファルガーの海戦も、ロシアでの冬将軍とコザック兵からの追撃とに苦しめられてパリへと逃げ帰る過程も丁寧に描いて欲しかった。そうだなあ、上映時間は4時間ぐらいあっても良い。

→リドリー・スコット→ホアキン・フェニックス→アメリカ、イギリス/2023→109シネマズ菖蒲→★★★☆