戦争のない20日間

監督:アレクセイ・ゲルマン
出演:ユーリー・ニクーリン、リュドミーラ・グルチェンコ、アレクセイ・ペトレンコ
原題:Двадцать дней без войны
制作:ソ連/1976
URL:
場所:新文芸座

『戦争のない20日間』は『道中の点検』や『神々のたそがれ』と同じ「道行」の映画だった。その主人公の「道行」にカメラがぴったりと寄り添うスタイルはすべての映画に共通するものだった。ただ『戦争のない20日間』は他の二つの映画と比べると、「戦地」と「内地」を対比させる厳しさはあるものの、人間の精神的な側面を厳しく描き出す点では抑え気味だったので、全体的には穏やかな映画に見えてしまった。だからか、緊張の糸が切れてしまったためにちょっとウトウトしてしまった。結局、アレクセイ・ゲルマンに求めるものは、愚かな人間の業をむき出しにしているところなんだなあと。

ひとつ、とても興味深かったのは、ソ連時代のタシケント(いまはウズベキスタンの首都)が出てくるところ。たぶん、映画のストーリー通りにタシケントでロケーションをしているとおもう。主演のユーリー・ニクーリンもスラブ系には見えないのでウズベク人なのかなあ。

→アレクセイ・ゲルマン→ユーリー・ニクーリン→ソ連/1976→新文芸座→★★★

道中の点検

監督:アレクセイ・ゲルマン
出演:ロラン・ブイコフ、ウラジミール・ザマンスキー、アナトリー・ソロニーツィン、オレグ・ボリーソフ、アンダ・ザイツェ
原題:Проверка на дорогах
制作:ソ連/1971
URL:
場所:新文芸座

今年の5月に観たアレクセイ・ゲルマン監督の遺作『神々のたそがれ』は、わけがわからないながらも映画から発するパワーに圧倒された映画だった。面白いかと聞かれれば、面白い映画とはまったくおもえないし、観ていてとても辛い映画だった。それなのに、すでに半年近くも経っているのに未だにその映画を引きずっているようなところがあって、心の底に得体のしれないドロドロとした澱がズシンと残ったような状態のままだ。

そんなわけだから引き寄せられるように新文芸座にアレクセイ・ゲルマンの旧作を観に行ってしまった。

アレクセイ・ゲルマンの単独としての監督処女作『道中の点検』は、第二次世界大戦中にドイツ軍に協力したソビエト軍の元伍長がパルチザンに投降し、何とかして再び祖国の兵士として認められたいと死闘するストーリーだった。この元伍長の動向に対してカメラがぴったりと寄り添う。カメラはとても近い。近すぎる。『神々のたそがれ』の「ドン・ルマータ」に対するカメラの近さとまったく同じだ。アレクセイ・ゲルマンのスタイルはすでに処女作にして確立されていた。このカメラの近さがまるでドキュメンタリーのようなリアリティを生み出し、『神々のたそがれ』よりもわかりやすく緊張感あふれるストーリーがより一層リアリティを増していた。

タルコフスキーもそうだけど、アレクセイ・ゲルマンの映画から発する不思議なオーラはいったい何から起因しているんだろう。ストーリーが面白いとか、登場人物に感情移入できるとか、そんなありふれた映画体験以外の部分に魅了される映画がロシア映画には多い。

→アレクセイ・ゲルマン→ロラン・ブイコフ→ソ連/1971→新文芸座→★★★☆

岸辺の旅

監督:黒沢清
出演:深津絵里、浅野忠信、小松政夫、村岡希美、奥貫薫、赤堀雅秋、蒼井優、柄本明
制作:「岸辺の旅」製作委員会/2015
URL:http://kishibenotabi.com
場所:丸の内TOEI

「幽霊」の存在を信じるかと聞かれたときには、信じる、と答えるとおもう。しかし、その「幽霊」とは、多くの人が信じているような外的要因から現れるものではなくて、人間の脳が作り出す内的要因のものではないかと考えている。今までよく云われてきたような「幻視」に近いものかもしれないけれど、その脳の生み出す映像を他人と共有することが出来る点で「幻視」とはちょっと違うのかもしれない。他人が作り出す脳内映像を共有することによって、まるで外的要因の物体に見えてしまうものが「幽霊」の正体ではないかと今のところそうおもっている。

この自分なりにおもい描く「幽霊」の正体を絶対視してしまうと、「幽霊」を扱ったホラー映画のほとんどに鼻白んでしまう。黒沢清が「幽霊」を扱う映画も、たとえば『回路』とかも、どうしても興ざめしてしまう。どんなに優れている映画であろうと、「幽霊」はそう云うものではないだろう、が先に立ってしまうとまったく楽しめなくなる。

今回の『岸辺の旅』の「幽霊」は、無理やりに深津絵里の脳内が作り出すイメージと考えてしまえば、今までの黒沢清の映画の中でも一番の納得行く映画だった。もちろん原作ではそのような「幽霊」の扱いになっているとわけではなくて、生者と死者の境界線のことを描いているんだろうけれども。でも「死者の世界」の概念を持ち込まれると途端にストーリーに興味がなくなってしまうので、そこはあえて無視で。

→黒沢清→深津絵里→「岸辺の旅」製作委員会/2015→丸の内TOEI→★★★☆

バクマン。

監督:大根仁
出演:佐藤健、神木隆之介、小松菜奈、染谷将太、桐谷健太、新井浩文、皆川猿時、宮藤官九郎、山田孝之、リリー・フランキー
制作:「バクマン。」製作委員会/2015
URL:http://bakuman-movie.com
場所:109シネマズ木場

NHKのアニメーション版「バクマン。」が面白くて、そこから勢い込んでコミックに手を出したら、それは5巻くらいで頓挫してしまった。別につまらないわけではなくて、めちゃくちゃ面白いんだけど、最近はコミックを全巻通して読む気力がなくて、いつも途中で放り出してしまう。「ガラスの仮面」を一気に40巻くらいを読んだころが懐かしい。

映画版『バクマン。』は、その長い原作コミックをどのように1話完結にするのかがとても気になって、そこばかりを注視して観てしまったのだけれど、おどろくほどソツなくまとめられていた。登場人物を刈り込んで(香耶とか蒼樹紅とか)、真城最高、高木秋人と新妻エイジとのライバル関係を単純化させて、コミックではあまり前面に押し出されなかった「少年ジャンプ」のモットー「友情・努力・勝利」を柱にすっきりとしたコンパクトな作品に仕上がっていた。

でも、コミック「バクマン。」のどこが面白かったのかと云えば、真城最高、高木秋人と新妻エイジとのライバル関係も然る事ながら、「少年ジャンプ」の中に新しい漫画家が生まれて行く過程をリアルでディティール豊かに描いているところであって、特に「少年ジャンプ」の編集者・服部哲とともに真城最高、高木秋人がいかにして「少年ジャンプ」の中にポジションを確保して行くかの過程の描写にあったような気がする。1話完結にしなければならない縛りがあるとは云え、その部分があっさりとしているところがとても残念だった。王道か、邪道か、の苦悩はもうちょっと掘り下げても良かったかなあ。おそらく上映時間が2時間越えになるだろうけど。

→大根仁→佐藤健→「バクマン。」製作委員会/2015→109シネマズ木場→★★★

廃虚のロビンソン

監督:パトリック・キーラー
ナレーション:ヴァネッサ・レッドグレイヴ
原題:Robinson in Ruins
制作:イギリス/2010
URL:http://www.athenee.net/culturalcenter/program/rob/robinson.html
場所:アテネ・フランセ文化センター

パトリック・キーラーと云うイギリスの映画作家を今回のアテネ・フランセ文化センターの「ロビンソン三部作」の公開で知り、ここ数年、山形国際ドキュメンタリー映画祭へ通い詰めた経験から、これはまた新しい切り口のドキュメンタリー映画ではないかとの臭覚が働いて、何がなんでも観たくなってしまった。

出来ることならば三部作の最初の『ロンドン』から観て、次に『空間のロビンソン』、そして最新作の『廃虚のロビンソン』とすべてを観たかったのだけれど、残念ながら時間がとれなくて最新作の『廃虚のロビンソン』しか観ることができなかったのがとても残念。

その唯一観ることのできた『廃虚のロビンソン』は、厳密な意味で云えばドキュメンタリー映画ではなかった。でも、今年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で大賞を獲ったペドロ・コスタの『ホース・マネー』がドキュメンタリー映画ならばこれもドキュメンタリーと呼んでも良いとおもう。

パトリック・キーラーのスタイルは、自然の風景や建築物の映像にナレーションをかぶせると云う単純なもので、人物はほとんど出て来ないし、もちろんセリフもない。しかもその制作方法も変わっていて、まずは撮影と編集を済ませてから、その編集済みの映像を元にナレーション台本を起こし、ナレーターが声を吹き込むと云うものだった。

『廃虚のロビンソン』は、“ロビンソン”と云う人物が残したフィルムとノートを元に構成されている設定の映画だった。その内容は、“ロビンソン”がイギリス南部のオックスフォードシャー、バークシャーを旅しながら、過去にその土地で起きた農民と権力者との抗争を紹介しつつ、それを現在のグローバリズムが引き起こしている資本主義経済の問題点とを照らし合わせて行くと云うものだった。映し出されるイギリス南部の自然豊かな映像は、ナレーションが説明する人間の業との対称を際立たせ、パトリック・キーラーの説明するところの「風景を凝視すれば、その歴史的な出来事の分子的基礎があらわになるはずだ」を実践させていた。特に繰り返し映し出される地衣類の植物が印象的で、その地球上でもっとも寿命の長い生物が人間の引き起こしている因果応報をもすべて包み込んでしまっているかのような印象を受けてしまうところがとても面白かった。

上映後の佐藤元状(英文学者・映画研究者)さんと木内久美子(比較文学研究者)さんとのトークで、パトリック・キーラーはイギリスのドキュメンタリー作家、ハンフリー・ジェニングスの影響を受けているのではないかと『英国に聞け』(Listen to Britain、1941)が紹介された。それを観た感じではそんなに影響があるとはおもえなかったけど、『ロンドン』や『空間のロビンソン』も観ればまた印象が違うのかもしれない。どちらかかと云うと、今回のパトリック・キーラーの上映会のために用意されたパンフレット「時間のランドスケープス」に書いてあったようにクリス・マルケルの影響があるようにもおもえるし、自然の風景との対比ではテレンス・マリックをもちょっとおもい出してしまった。

→パトリック・キーラー→(ナレーション)ヴァネッサ・レッドグレイヴ→イギリス/2010→アテネ・フランセ文化センター→★★★☆

山形国際ドキュメンタリー映画祭。最終日に観た映画は以下の通り。

●クロエ・アンゲノー、ガスパル・スリタ監督『いつもそこにあるもの』(Always and Again、フランス、2015)
日本のドキュメンタリー映画は、ナレーションやテロップが盛りだくさんのものが多い。いたるところに説明書きや案内板がある日本の社会と同じようにいたれりつくせりだ。それに対して外国のドキュメンタリー映画は、いきなりポーンと放り出されて、ほったらかしにされる場合が多い。この『いつもそこにあるもの』も、場所や人物については何の説明もない。映し出される映像だけから、どこか外国の、切通しに埋め込まれているような不思議な佇まいのアパートの一室であることがわかる。言葉はイタリア語のようだ。いろんな世代の女性が次々と出てくる。おそらく三世代の家族だろう。男がいないのはどうしてだろう。いや待てよ、部屋の片隅のベッドに寝ている男の人がいる。ずっと寝たきりだ。パトリッツィアって誰だ? ああ、婆さんか。孫がロマーナで、エンツォって孫もいるみたいだぞ。エンツォは刑務所にいるらしい。もう一人の娘はいったい誰だ? と、推測して行くしかない。でも、説明過多のドキュメンタリー映画よりも、断然このタイプの映画の方が好きだ。

●杜海濱(ドゥ・ハイビン)監督『青年★趙(チャオ)』(A Young Patriot、中国、フランス、アメリカ、2015)
子供のころに受けた愛国主義教育によって植え付けられたナショナリズムも、大学などの高等教育を受けて内省できるような人間に成長できれば自ずと多様的な考えがあることを理解できるようになり、単純なナショナリズムへの疑問が芽生えて行くようになることを実証している映画だった。ニュースから流れる「中国」と、山形で観る中国のドキュメンタリーに出てくる「中国」とはいつも重ならない。

以上、今回の山形国際ドキュメンタリー映画祭では11本の映画を観た。刺激的な作品は少なかったけど、自分の観た映画にはどの映画もその国の下層に位置するの人間が出てきたので、さしずめ下層社会映画祭になってしまった。その中でもキム・ロンジノット監督の『ドリームキャッチャー』が一番面白かった。

山形国際ドキュメンタリー映画祭。今日観た映画は以下の通り。

●キム・ロンジノット監督『ドリームキャッチャー』(Dreamcatcher、イギリス、2015)
アメリカのシカゴで性暴力の被害女性たちを支援している団体「ドリームキャッチャー・ファウンデーション」を主宰しているブレンダを追いかける映画。フレデリック・ワイズマンの『パブリック・ハウジング』や『DV』を彷彿とさせる映画で、自分の生い立ちと似たような境遇の女性たちへの丁寧なサポートによって、次第に彼女たちからの信頼を得て行く様子がしっかりと記録されている。女性監督にしか撮ることのできない、女性に対するきめ細やかな素晴らしい映画だった。

●アッバース・ファーディル監督『祖国 ― イラク零年』(Homeland (Iraq Year Zero)、イラク、フランス、2015)
334分と言う長い映画だけど、アメリカを中心とした多国籍軍が進攻する前と後のバグダッドが比較できるところにその長さの意味があって、フセインやブッシュの所為だけにはできないイラクの複雑さがその長さのなかに見て取れるところもとても良かった。
進攻前を描く第一部で、この映画の中心に絶えずいる12歳の少年のハイダルに対して、さらりと、「ハイダルはアメリカ軍侵攻後に亡くなる」とテロップが出て、その小さなテロップを5時間半の最後まで引きずって観なければならないところも辛い映画。

山形国際ドキュメンタリー映画祭。今日観た映画は以下の通り。

●アレクサンダー・ナナウ監督『トトと二人の姉』(Toto and His Sisters、ルーマニア、2014)
ロマ人はルーマニア社会でも最下層に位置するらしく、仕事の無いロマの若い奴らは四六時中クスリばっかりを射っている。それをそのままカメラに収めている部分に引っかかるところがあるけど、それが現実だとしたらやはりそのままカメラに収めるべきだともおもうし。最下層から抜け出すには周りのサポートが大切なのに、刑務所から出所したばかりの母親のダメさ加減が見えて映画が終わるところに絶望感が。トトがヒップホップダンスの才能で最下層から抜け出せることを願うばかり。

●イェレヴァント・ジャニキアン、アンジェラ・リッチ・ルッキ監督『東洋のイメージ ― 野蛮なるツーリズム』(2001)
●マノエル・ド・オリヴェイラ監督『ニース ― ジャン・ヴィゴについて』(1983)
二つともインスタレーションに近くて、椅子に縛られて観るものではなかった。もっと自由に観るべき映画だった。

●ペドロ・コスタ監督『ホース・マネー』(Horse Money、ポルトガル、2014)
ポルトガルのカーネーション革命のこととか、元ポルトガル領だったカーボベルデのこととか、ポルトガル関連の知識が乏しいとなかなか理解することの難しい映画だった。不安を駆り立てるような映像や音響効果だけはしっかりと伝わって来たけど。

山形国際ドキュメンタリー映画祭に2日目から参加。これで4回連続なので、8年間通い詰めていることになる。今日観た映画は以下の通り。

●小林茂監督『風の波紋』(日本、2015)
知っている人が出ていると云うので駆けつけて観てみたけれど、これがとてもよく出来た映画だった。それは知り合いが画面に登場しているだけの面白さなのか、それとも映画自体がしっかりと作り込まれた面白さなのか、客観性が損なわれてしまっている時点でさっぱりわからない。東京から新潟の松之山に移住して、いつの間にかそんなにやりたいとはおもっていなかった農業をやっている木暮さんの人間としての面白さは充分に伝わっているとはおもうけど。

●マリア・アウグスタ・ラモス監督『6月の取引』(Future June、ブラジル、2015)
2014年6月のサッカー・ワールドカップ開催のころのサンパウロに住む主に4人(証券会社の人、地下鉄ストライキの人、自動車工場の人、バイク便の人)の人物を追いかけたドキュメンタリー。冒頭のクルマで渋滞する道路(なんとなく首都高に見える)やラッシュ時の満員電車を映し出すシーンから、あれ?ここはもしかして東京? とおもわせるほど、BRICsともてはやされて好調だったブラジル経済。それが2014年には次第に行き詰まって来て、ワールドカップを開催する金があるくらいなら公共サービスを充実させろ! のデモも起こっているサンパウロは、2020年のオリンピック開催を控えている東京とシンクロする部分も多くて、ブラジルだろうと日本だろうと抱えている問題は共通するんだなあとこのドキュメンタリーを観ておもう。でも、地下鉄のストライキとか、ブラジル代表の試合の時には工場ラインを休憩にしようとする労使交渉が出来るブラジルのほうが、日本よりも健全な社会を育んでいるんじゃないかと羨ましくなる。やっぱり日本は変だ。

●三上智恵監督『戦場(いくさば)ぬ止(とぅどぅ)み』(日本、2015)
辺野古基地反対のメッセージが大前提にあるので、そこに身を委ねて見れば素晴らしい映画。でも、登場する人物の背景を掘り下げて行く描写は、また別の話、だったような気もする。もし、沖縄の歴史をも加味した上でそれぞれの人物像を入れるのであれば、もうちょっと全体的な構成を整理できたら良かったのになあとはおもう。

キングスマン

監督:マシュー・ヴォーン
出演:コリン・ファース、タロン・エガートン、マイケル・ケイン、マーク・ストロング、サミュエル・L・ジャクソン、ソフィア・ブテラ、マーク・ハミル、ソフィー・クックソン、エドワード・ホルクロフト、サマンサ・ウォーマック、ジェフ・ベル、ビョルン・フローバルグ、ハンナ・アルストロム、ジャック・ダベンポート
原題:Kingsman: The Secret Service
制作:イギリス/2014
URL:http://kingsman-movie.jp
場所:109シネマズ菖蒲

ショーン・コネリーが007を演っていたころのジェームズ・ボンドの映画には、ハリウッド映画の影響を受けながらどこかイギリスらしさが残っていて、その紳士を気取っていながら人間の底が知れてしまっているような陳腐さがモンティ・パイソン風に漂っているところが大好きだった。

ところが最近のダニエル・クレイグの007には、そんなイギリスらしさが、うっすらと残ってはいるものの、だいぶ少なくなってしまって、ハリウッドのアクション映画となんら変わりがなくなってしまっているところがとても残念だった。

マシュー・ヴォーンは、そんな現状の007を憂いつつ、昔のショーン・コネリーの007にオマージュを捧げる意味でこの『キングスマン』を作ったに違いない。それはこの映画の中に出てくる「昔の悪役は誇大妄想狂だった」と云うセリフにもはっきりと現れていた。ダニエル・クレイグの007に出てくる悪役には馬鹿げたところがまったくない。そんなイギリス的でないものを007と呼ぶには無理がある、とマシュー・ヴォーンはこの映画で語っているようだった。

また、ケン・ローチの映画などを見ればよくわかるように、イギリスには今もって階級制度が存在していることがよくわかる。その最下層の「Working Class(労働者階級)」に属している若い奴を主人公に持ってきているところもイギリス的で、そいつを『マイ・フェア・レディ』のように紳士に育てて行くところをスパイ映画に加味しているところも楽しかった。

プレミアリーグ好きとしては、エグジーの部屋にミルウォールFCのグッズがあるところに大笑いしてしまった。ああ、やっぱりミルウォールのファンは最下層だ!と。敵対するウェストハムのファン(オレだ!)も似たようなものだろうけど。

→マシュー・ヴォーン→コリン・ファース→イギリス/2014→109シネマズ菖蒲→★★★☆