ゴジラ キング・オブ・モンスターズ

監督:マイケル・ドハティ
出演:カイル・チャンドラー、ヴェラ・ファーミガ、ミリー・ボビー・ブラウン、ブラッドリー・ウィットフォード、渡辺謙、サリー・ホーキンス、チャールズ・ダンス、トーマス・ミドルディッチ、アイシャ・ハインズ、オシェア・ジャクソン・Jr、デヴィッド・ストラザーン、チャン・ツィイー
原題:Godzilla: King of the Monsters
制作:アメリカ/2019
URL:https://godzilla-movie.jp
場所:109シネマズ木場

ハリウッドで作られる「ゴジラ」映画も3作目になって、最初のローランド・エメリッヒ版から比べるとだいぶ見られる「ゴジラ」になったような気がするけれど、庵野の『シン・ゴジラ』を観てしまうと、ああやっぱり「ゴジラ」は日本人が作らないといけないなあ、とはおもってしまう。ハリウッド版「ゴジラ」のキャラクターがまだモンスターとしか捉えてないのに対して、庵野版「ゴジラ」には生物としてそうなってしまった哀しみ、憐れみが絶対的にそのベースにあるからなあ。そこは被爆国として譲れない線だ。

でも、伊福部昭の「ゴジラのテーマ」や古関裕而の「モスラの歌」が使われていたりすると、日本版ゴジラ・シリーズへのリスペクトがしっかりと感じられて鳥肌が立ってしまう。単なる安直なリメイクではないことは端々の細かな設定からもうかがえるのはやはり日本人としては嬉しい。

次は『ゴジラVSキングコング』かあ。「キングコング」はハリウッドが本家なわけだから、これは絶対に面白くなるぞ。

→マイケル・ドハティ→カイル・チャンドラー→アメリカ/2019→109シネマズ木場→★★★☆

アイアンホース

監督:ジョン・フォード
出演:ジョージ・オブライエン、マッジ・ベラミー、シリル・チャドウィック、フレッド・コーラー、グラディス・ヒューレット、J・ファレル・マクドナルド
原題:The Iron Horse
制作:アメリカ/1924
URL:
場所:アテネ・フランセ文化センター

戦後のジョン・フォードの映画には、どの映画にも通底しているテーマやキャラクター造形があって、そのブレない共通した映画作りがジョン・フォードの映画を追っかけてやまない要因のひとつなんだろうとおもう。特に、『黄色いリボン』や『リオ・グランデの砦』のヴィクター・マクラグレンが象徴的な、酒好きでだらしないけど人が良くて憎めない軍曹、のようなキャラクターを必ず配置させるところが大好きで、彼らの出演部分を見るだけでもジョン・フォードの映画を見た気分になってしまう。おそらく、宮崎駿もこのキャラクター造形に影響を受けていて、『天空の城ラピュタ』のドーラの手下や『紅の豚』の空賊たちは絶対にジョン・フォードの影響だろうと想像できてしまう。

じゃあ、その共通したテーマやキャラクター造形がいつからはじまったのだろうかと考えたときに、驚いたことに1924年の『アイアンホース』の時点ですでにそれは完成されていた。家族愛、正義、男気、アイルランドへの郷愁や、酔いどれ軍曹のような憎めないキャラクターなど、ジョン・フォードが映画を撮り始めて、そして世間に認めらた時点でそのすべてがはじまっていたことには驚いた。

1937年の『ハリケーン』以降のジョン・フォードの映画は、そのほとんどを見ているので、ああ、もっとサイレント時代の映画を観たいなあ。

→ジョン・フォード→ジョージ・オブライエン→アメリカ/1924→アテネ・フランセ文化センター→★★★★

鄙(いなか)より都会へ

監督:ジャック・フォード(ジョン・フォード)
出演:ハリー・ケリー、モリー・マローン、L・M・ウェルズ
原題:Bucking Broadway
制作:アメリカ/1917
URL:
場所:アテネ・フランセ文化センター

ジョン・フォードはいつも使う俳優を固定させていることで有名で、それは主役だけではなくて脇役でさえも同じ俳優を使っていて、その中にハリー・ケリー・ジュニアがいた。そのジュニアのお父さんも有名な俳優ハリー・ケリーで、ジョン・フォードがサイレント映画時代によく使っていたことは映画関係の書籍などで知っていた。しかし、自分が実際に見ることのできたハリー・ケリーは、フランク・キャプラ監督の『スミス都へ行く』(1939)の上院議長役くらいで、もちろん主演映画を見たことはなかった。

『鄙より都会へ』でのハリー・ケリーの印象は、サイレント映画用のメイクをしているうえに肉声が無いので、いまの映画からすればだいぶ作られたイメージしか印象に残らないのだけれど、『スミス都へ行く』で見せた上院議長と云う公正な立場を崩さないながらも、正義を貫くジェームズ・スチュアートに温情を寄せざるを得ない男の笑顔とまったく同じ笑顔がこのサイレント映画にはあった。この真っ直ぐな性格を象徴するような屈託のない笑顔こそがハリー・ケリーの魅力のような気がする。

ジョン・フォードのサイレント映画でハリー・ケリーが主演をつとめた一連の「シャイアン・ハリーもの」をもっと観たいな。

→ジャック・フォード(ジョン・フォード)→ハリー・ケリー→アメリカ/1917→アテネ・フランセ文化センター→★★★

沈没家族 劇場版

監督:加納土
出演:加納土、加納穂子
制作:おじゃりやれフィルム/2018
URL:http://chinbotsu.com
場所:ポレポレ東中野

1995年当時シングルマザーだった加納土監督の母・加納穂子(当時23歳)は、共同で子育てをしてくれる「保育人」を募集する。「いろいろな人と子どもを育てられたら、子どもも大人も楽しいんじゃないか」という考えのもとに集まった独身男性や幼い子をかかえた母親など10人ほどの中で加納土監督は育てられていく。それは「沈没家族」と命名されてテレビでも取り上げられて話題となった。

大きくなった加納土監督は、武蔵大学在学中の卒業作品として自身が育てられた「沈没家族」のドキュメンタリーを制作し、それを再編集して劇場版として公開した。

映画を観はじめた第一印象として、やはりそこにはイエスの方舟のようなエセ宗教的な胡散臭さや、ヤマギシ会のようなカルト的な押し付けがましさを感じてしまった。でも、そんなありふれた感情は一瞬のうちに氷解してしまった。加納土監督の母・加納穂子の考えは、もっと自由だったし、いい意味でも悪い意味でも適当だったし、単純に一人でやらなければならない子育てが面倒くさかっただけだったのかもしれない。頭の固い人たちはそんなところに無責任さを感じてしまうのだろうけど、母と子だけの閉ざされた環境での子育てで起きてしまういろいろな問題を見れば、そのような環境よりは「沈没家族」のほうが良いに決まっているような気がしてならない。

こんな「沈没家族」のような環境が、それぞれの自治体のコミュニティにもあったら児童虐待とかは減るんじゃないかと単純に考えてしまう。本当に、単純に、だけど。

→加納土→加納土→おじゃりやれフィルム/2018→ポレポレ東中野→★★★☆

ロスト ロスト ロスト

監督:ジョナス・メカス
出演:ジョナス・メカス、アドルファス・メカス
原題:Lost Lost Lost
制作:アメリカ/1976
URL:
場所:シアター・イメージフォーラム

もし生まれたときからの自分の目で見た映像をなにかしらの媒体に記録ができて、それをいつでも再生することができたとしたら、それは嬉しいことなのか、それとも辛いことなのか。ジョナス・メカスの『ロスト ロスト ロスト』を観てふとそんなことを考えていた。自分の記憶をたどる行為はノスタルジックでセンチメンタルな行為のような気もするけど、そこにには自分の良いように改変された記憶だからこその甘さがあって、そのものズバリの事実を突きつけられてしまったら感傷的な気持ちも和らいでしまうだろうなあ。

1949年から約20年間にわたるリトアニアからの難民としてニューヨークの生活を綴ったこのメカスの映画日記は、そこに編集作業と云う行為が加わることによって、自分の良いように改変された記憶と同じような甘さが加わって、やはりノスタルジックでセンチメンタルなものになっていた。映画のナレーションでメカス自身が「わたしをセンチメンタルだと言うがよい。あなたたちは自分の生まれた国にいる人達。わたしは異国なまりの英語をしゃべり、どこから流れてきたヤツだろうと思われている人間。これは、国を追われた誰かが撮っておいた映像とサウンドなのだ」(飯村昭子訳)と云っているんだから、もうそれはメカス自身のひとつの大きなテーマになっている。

いつも云っているように、センチメンタルな映画が大好きな自分にとってはたまらない映画ではあったのだけれど、ちょっと180分は長すぎて、後半はくたびれました。

→ジョナス・メカス→ジョナス・メカス→アメリカ/1976→シアター・イメージフォーラム→★★★☆