広島・長崎における原子爆弾の影響 広島編

監督:
出演:
制作:日本映画社/1946
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場所:「被爆者の声をうけつぐ映画祭」武蔵大学江古田キャンパス1号館地下1002シアター教室

原爆が広島と長崎に落とされたあとすぐに撮影隊が当地に入って原爆による被害状況の撮影を行ったことは、その時に映された映像を資料として断片的に見ることよって理解していたけれど、そのいきさつの詳しい事情は良くわかっていなかった。毎年(昨年は行かれなかったけど)行っている「被爆者の声をうけつぐ映画祭」で『広島・長崎における原子爆弾の影響 広島編』を観ることによって、そしてそのあとの永田浩三(武蔵大学社会学部教授)さんのトークを聞くことでその事情を理解することが出来た。

その事情は、この日映映像のホームページにある「原爆映像の経緯」に年表としてまとめられている。
http://www.nichiei-eizo.jp/genbaku.html

要約するとこんな感じ。

1945年
8月8日、日映(日本映画社)本社のカメラマン柾木四平が広島に入り市内を撮影する。
8月9日、日映大阪支社のカメラマン柏田敏雄が広島に入り市内を撮影する。
9月3日、日映の伊東寿恵男、相原秀二らが企画した原爆被災記録映画の製作決定。
9月23日、日映の生物班が広島での調査・撮影を本格的に開始。
10月1日、日映の物理班、医学班が広島での調査・撮影を本格的に開始。
10月17日、長崎に入った日映の製作スタッフが進駐軍の干渉を受ける。
10月27日、製作スタッフが長崎の進駐軍と映画撮影について交渉するが、撮影許可を得ることができず撮影は中断。
11月6日、フィルムの現像に入る。
12月18日、映画製作は米国戦略爆撃調査団の委嘱により継続が決定。
12月26日、日映の物理班、長崎での調査・撮影を本格的に開始。

1946年
4月21日、映画が完成。
5月4日、日比谷公会堂で米国関係者への映画の試写会を開催。映画のネガフィルムを米国へ輸送(20日頃までにすべてのフィルムを輸送)。

このようないきさつで、撮影されたフィルムはすべてアメリカに行ってしまった。で、そこから20年が経って、

1967年
11月9日、映画フィルムの複製(35mmが16mmに複製されていた!)が米国から文部省へ返還される。

1968年
4月13日、映画の日本語版が完成するが、人権に配慮して一部がカットされる。
5月2日、広島市公会堂で映画を一般公開。
10月24日、原爆記録映画全面公開推進会議が文部大臣へ映画の全面公開(ノーカット)を求める。

1995年
8月、平和博物館を創る会映画委員会が、映画「広島・長崎における原子爆弾の影響/日本語版」(ノーカット)を完成。

これほどまでに長い時間がかかってノーカット版『広島・長崎における原子爆弾の影響』が日の目を見ることとなったことがよくわかった。映画自体の内容(特にやはり「人体への影響」など)にも目を瞠るものがあるけど、そのただならぬ事態を悟ってすぐさま現地に入った日本映画社のスタッフの強烈な想いが込められたフィルムが、いろんな人の手に渡りながらもその輝きを失わずに生き長らえてきたその歴史にも感動させられる映画だった。

→→→日本映画社/1946→「被爆者の声をうけつぐ映画祭」武蔵大学江古田キャンパス1号館地下1002シアター教室→★★★★