監督:ロバート・エガース
出演:アニャ・テイラー=ジョイ、ラルフ・アイネソン、ケイト・ディッキー、ハーヴェイ・スクリムショウ、エリー・グレインジャー、ルーカス・ドーソン、ルーカス・ドーソン
原題:The Witch / The VVitch: A New-England Folktale
制作:アメリカ/2015
URL:http://www.interfilm.co.jp/thewitch/
場所:新宿武蔵野館

夜の闇が濃かった時代には、そこに潜む得体の知れないものへの恐怖があって、それは当時としては理解することのできなかった自然現象やどう猛な動物への畏怖が相まった感情から生ずるものでもあって、そう云った自分たちの理解することのできないものに対する怖れに解答を与えてくれるのが古代からの「宗教」の一つの側面だったんじゃないかともおもう。でも、その反面、自分たちの「宗教」に依存してもらうために恐怖を助長する側面もあって、だからこそキリスト教における「魔女」なんて概念も存在してしまった。

ロバート・エガース監督の『ウィッチ』は、1620年にメイフラワー号によって多くのイングランド人が入植して間もないアメリカのニューイングランドが舞台。教会との何かしらの確執から入植地を追放された親子6人家族は、まだまだ「闇」が多く存在する森の近くに住まわざるを得なくなってしまう。そこで幼い男の赤ちゃんが「神隠し」にあってから徐々に歯車が狂い始め、次々に家族の中の男のみが災難に見舞われていく。こうなると、この災難の原因を探りたくなるのが追い詰められた人間のよくある心情で、母親はそれを赤ちゃんがいなくなった時にそばにいた長女に見出してしまう。悪魔と契約した「魔女」ではないかと。

実の娘を「魔女」と疑い始める感情というものはいったいどんなものなんだろう? キリスト教徒でなければ理解不能のような気がする。理解するためのキーとしては、「月のもの」を迎えた女の子、と云うことと、姉に対して弟が性的欲求を見せるショットがある、と云うあたりかなあ。キリスト教にはルカによる福音書に出てくる「罪深い女」やヨハネによる福音書に出てくる「姦通の女」が絶えず重要視されていて、そこから淫らな女への嫌悪がすごく強いような気もする(特にキリスト教に関係する映画において)。信心深ければ深いほど、性的魅力を備えた若い女性への警戒心が強くなってしまう。だから実の娘を「魔女」と結びつけてしまうのか。

『ウィッチ』は入植地を追放された家族が狂っていく描写が美しいとともに、キリスト教徒でなくともゾッとするほどの怖さがあった。美しさと恐怖は紙一重だ。

→ロバート・エガース→アニャ・テイラー=ジョイ→アメリカ/2015→新宿武蔵野館→★★★☆