監督:ケネス・ブラナー
出演:ケネス・ブラナー、ジョニー・デップ、ミシェル・ファイファー、ジュディ・デンチ、ペネロペ・クルス、デイジー・リドリー、ウィレム・デフォー、ジョシュ・ギャッド、デレク・ジャコビ、レスリー・オドム・Jr.、マーワン・ケンザリ、マーワン・ケンザリ、ルーシー・ボーイントン、マヌエル・ガルシア=ルルフォ、セルゲイ・ポルーニン、トム・ベイトマン
原題:Murder on the Orient Express
制作:アメリカ/2017
URL:http://www.foxmovies-jp.com/orient-movie/
場所:109シネマズ木場

すでに誰もが犯人を知っている有名な推理小説を映画化する時に、もちろん犯人あてのサスペンスで映画を持たせるのは無理が生じてしまうので、どこか違う部分で勝負をしなければならなくなる。ケネス・ブラナーの『オリエント急行殺人事件』はまさにそこを期待して観に行った。

卵の大きさにこだわるエルキュール・ポワロに焦点を当てたオープニングには、おっ! 新しいことが始まるな! の期待を抱かせるに充分だった。でも徐々に、VFXはすごいんだけど、その期待はしぼんで行ってしまった。もうちょっと奇をてらったことをやっても良かったんじゃないのかなあ。たとえ原作ファンに総スカンを食らっても。

シドニー・ルメット版『オリエント急行殺人事件』はオールスタア・キャストが魅力の一つだった。その点においても、今回もオールスタア・キャストが欲しかったかなあ。

→ケネス・ブラナー→ケネス・ブラナー→アメリカ/2017→109シネマズ木場→★★★

監督:アキ・カウリスマキ
出演:シェルワン・ハジ、サカリ・クオスマネン、イルッカ・コイブラ、ヤンネ・ヒューティライネン、ヌップ・コイブ、カイヤ・パカリネン、ニロズ・ハジ、サイモン・フセイン・アルバズーン
原題:Toivon tuolla puolen
制作:フィンランド/2017
URL:http://kibou-film.com
場所:ユーロスペース

アキ・カウリスマキの映画を観ると、感情をあまり表にあらわさない主人公や、それを助ける義理人情の厚い周囲の人々のさりげない行動に、出しゃばり過ぎない日本人的な奥ゆかしさを感じてしまう。それに、使われている音楽がどこか昭和のムード歌謡を感じさせたりと、フィンランド人は見た目こそスウェーデン人やドイツ人のようなゲルマン系の人種に似ているけど、DNAだけで判断すればアジアに近いんだなあと云うことをどことなく実感してしまう。

今回の主人公はフィンランド人ではなくて、時事的な話題も取り込んだシリア人でありながら、やはりそこはアキ・カウリスマキの色が濃く反映されていて、今までの映画の主人公と同じように静かなタイプの人間だった。勝手なイメージから判断すれば、アラブの人間ならばもっと感情をあらわにするんじゃないかとハラハラしている我々のおもいをよそに、役所から移民申請を拒否されても、ネオナチのような人間から暴行を受けても、それをただ甘んじて受け入れてしまうのは意外だった。だから、ちょっと風貌が似ていることから、主人公のカーリドがどんどんと山田孝之にしか見えなくなってしまって、さらに寿司屋の店員をしたりするものだから、ますます何事にも気持ちを荒げず、耐え忍ぶ日本人にしか見えなくなってしまった。

ユーロスペースの土曜日の午後5時30分の回はほぼ満席だった。日本でアキ・カウリスマキの映画が人気なのは、そこに古き良き日本の面影を感じ取ってるからなのかなあ。最近の日本はあまりにもギスギスしすぎる。

→アキ・カウリスマキ→シェルワン・ハジ→フィンランド/2017→ユーロスペース→★★★☆

監督:ジョン・キャメロン・ミッチェル
出演:エル・ファニング、アレックス・シャープ、ルース・ウィルソン、マット・ルーカス、ニコール・キッドマン
原題:How to Talk to Girls at Parties
制作:イギリス、アメリカ/2017
URL:http://gaga.ne.jp/girlsatparties/
場所:MOVIXさいたま

映画のタイトルだけから判断してしまうと、さえない男子の「彼女が欲しい」ストーリーのようなものしか期待できなかったけど、それはまったくのトラップで、こちらの想像を遥か上を行く唖然とするほどの展開が待っていた。何よりもまず、これがSFだったのだ。それもストーリーの時代設定が1977年であることから、ちょっと「プリズナーNo.6」をおもわせるイギリス風味のレトロなSF感覚で、そこに当時の時代を席巻していたパンクロックを絡ませた、ぶっ飛んだ青春+音楽+SF+ラブストーリーだった。

さらに、70年代のイギリス映画で美少女と内気な少年の逃避行となると、これは絶対に『小さな恋のメロディ』に行き着いてしまう。雑誌「スクリーン」「ロードショー」からの映画ファンとしては、エル・ファニングとアレックス・シャープのピュアな関係がトレイシー・ハイドとマーク・レスターのそれに見えて郷愁感がハンパなかった。

そして、面白い映画には必ずと云って良いほどの素晴らしい脇役の存在。すでに大女優としての地位が確定しているニコール・キッドマンなのに、こんな小さな映画の、それもロッカーとして挫折を味わった過去を持つ、やさぐれた雰囲気のマネージャー役を演じるとは。最初は、え? ニコール・キッドマン? いや、似ている女優だろう、と信じられなかった。根っからの「役者バカ」なんだろうなあ。そんなニコール・キッドマンの、自分を貶めた奴らを呪詛するセリフがかっこいい。

「余命を知っている奴らが親切ぶって生き血をすする」

→ジョン・キャメロン・ミッチェル→エル・ファニング→イギリス/2017→MOVIXさいたま→★★★★

監督:ロネ・シェルフィグ
出演:ジェマ・アータートン、サム・クラフリン、ビル・ナイ、ジャック・ヒューストン、ジェイク・レイシー、リチャード・E・グラント、エレン・マックロリー、エディ・マーサン、レイチェル・スターリング 、ヘンリー・グッドマン、クローディア・ジェシー、ジェレミー・アイアンズ
原題:Their Finest
制作:イギリス/2016
URL:http://jinsei-cinema.jp
場所:新宿武蔵野館

フランソワ・トリュフォーの『映画に愛をこめて アメリカの夜』に代表されるような映画の製作過程を描く映画がとても好きだ。その映画がたとえイマイチの出来の映画であってさえも。おそらくそれは、多くの人々が楽しむことのできる「映画」を作る人々に、すでに尊敬の念しか持ってないからかもしれない。出来の悪い映画を観た後でも、酷評はするかもしれないけど、その映画製作に携わった人々には感謝しかない。

ロネ・シェルフィグ監督の『人生はシネマティック!』は、1940年のロンドンで、ドイツ軍による空襲で疲弊しきった市民に勇気を与えようと「ダンケルク」を題材にした映画を作ろうと努力する人々を描いた映画だった。稼ぎのない夫の代わりに家計を支えようとコピーライターの秘書として働いていた女性が、突然、映画の脚本チームに加わることになってしまって、製作にまつわるトラブルに巻き込まれながらも、次第に「映画」と云う魔法に取り憑かれて行く過程を描くものだから、それは自分にとって面白くない映画のはずがなかった。

この映画の中で出来上がった「ダンケルク」の映画は、今年公開されたクリストファー・ノーラン監督の『ダンケルク』とは似ても似つかない、昔ながらのイギリス映画ではあったのだけれど、ふと、映画にはどこまでリアリティが必要なんだろう? と考えてしまった。演技は大仰で、カット割りは決まりきっていて、音楽が入るタイミングもパターン化されているし、撮影セットの美術はおもいっきり張りぼてで、背景は書き割りの世界なのに、それでも人を感動させることのできた時代は良かったなあ。いまの時代は、そこからは遠く、隔たってしまった。

→ロネ・シェルフィグ→ジェマ・アータートン→イギリス/2016→新宿武蔵野館→★★★☆

監督:トラヴィス・ナイト
声:矢島晶子、田中敦子、ピエール瀧、羽佐間道夫、川栄李奈、佐野康之、さかき孝輔、小林幸子
原題:Kubo and the Two Strings
制作:アメリカ/2016
URL:http://gaga.ne.jp/kubo/
場所:109シネマズ菖蒲

Twitterから聞こえてくる大絶賛の嵐の映画を観に行って、自分にとっては「そんなでもない映画」だった時の落胆ぶりは計り知れない。どこか、村八分にでもあったような疎外感しかない。トラヴィス・ナイトの『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』がまさに、それ、だった。

ハリウッド映画の描く日本文化が中国文化と混同してしまっても、日本人が西洋を一緒くたに見ているのと同じように、アメリカ人にとっては東洋がどれも同じに見えるんだなあと、おおらかな気持ちで眺めてはいた。でもそれがアニメーションとなると、デフォルメされて強調されるためか、その「日本的」なるものが微妙にズレていることにやたらと気になってしまった。「KUBO」は「名」ではなくて「姓」だろうなんてことは、まあ、突っ込まないことにしても、とても重要なアイテムとして登場する「破れずの兜」の「兜」はやっぱり日本の戦国武将が着けていた立物(たてもの)のある立派な「兜」にするべきだっただろう、なんておもってしまう。「KUBO」を助ける「クワガタ」の立派なハサミから連想されるだろう立物(たてもの)が無い中国的な「兜」だなんて! それに「KUBO」と「闇の姉妹」や「月の帝」とのアクションシーンは武侠映画にしか見えない。もし「KUBO」を父親の象徴としての「サムライ」と結びつけるつもりだったのなら、そこは日本的な武術シーンにするべきだったんじゃないのかなあ。

このような揚げ足取りのようなことを云うと怒る人もいるかもしれないけれど、気になってしまったものはしょうがない。あくまでも個人の感想です。

→トラヴィス・ナイト→(声)矢島晶子→アメリカ/2016→109シネマズ菖蒲→★★★

監督:タイカ・ワイティティ
出演:クリス・ヘムズワース、トム・ヒドルストン、ケイト・ブランシェット、イドリス・エルバ、ジェフ・ゴールドブラム、テッサ・トンプソン、カール・アーバン、マーク・ラファロ、アンソニー・ホプキンス、浅野忠信
原題:Thor: Ragnarok
制作:アメリカ/2017
URL:http://marvel.disney.co.jp/movie/thor-br.html
場所:109シネマズ木場

「マイティ・ソー」シリーズに出てくるキャラは、トム・ヒドルストンの「ロキ」がクリス・ヘムズワースの「ソー」をちょっと喰い気味なところがあって、その魅力的なキャラの「ロキ」が単純な「ソー」への対立軸としての悪役だけにしておくのはもったいないと考えたのか、今回の映画では微妙に「ソー」に対して協力を見せる立ち位置となっていた。でもそこは一応「ロキ」のキャラクターを維持するべく得意の裏切りを見せはするのだけれど、それがまるで子供のいたずらレベルにまで落ちてしまっていて、「ソー」と「ロキ」との掛け合いが漫才のように笑える事態にまでなっていた。特に「助けて!」作戦などは、お笑いのテクニックとしての「天丼」にまでしてきた!

となると、この映画のエンドクレジットで見せた「ロキ」が保有しているとおもわれる「スペース・ストーン」にはどんな意味があるんだろう。「ロキ」がまた「悪」に走るのか。「ソー」に協力する形で「スペース・ストーン」を提供するのか。

とにかく来年公開される『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』では、今までの「マーベル・シネマティック・ユニバース」の映画ではあまりストーリーに絡んでこなかったインフィニティ・ストーンがメインとなるはずだ。以下、インフィニティ・ストーンが、今、どこにあるのかのまとめ。

●スペース・ストーン(青色のインフィニティ・ストーン、「四次元キューブ」に収められてる):アスガルドにあるオーディンの金庫に保管されていたけどロキが回収? おそらくアスガルドの移民船内にある。
●マインド・ストーン(黄色のインフィニティ・ストーン):最初は「ロキ」の杖に、現在は「ヴィジョン」の額(ひたい)に。
●リアリティ・ストーン(赤色のインフィニティ・ストーン):コレクターの保管庫にあったが爆発により所在不明。
●パワー・ストーン(紫色のインフィニティ・ストーン):ザンダー星にて保管中。
●タイム・ストーン(緑色のインフィニティ・ストーン):ネパールの首都カトマンズにあるカマー・タージにて保管中。
●ソウル・ストーン(橙色のインフィニティ・ストーン):所在不明。

http://d-kamiichi.com/archives/18013#i を参照しました。)

→タイカ・ワイティティ→クリス・ヘムズワース→アメリカ/2017→109シネマズ木場→★★★☆

監督:フィリップ・ガレル
出演:ピエール・クレマンティ、ズーズー、ティナ・オーモン、ジャン=ピエール・カルフォン、フィリップ・ガレル
原題:Le Lit de la Vierge
制作:フランス/1969
URL:
場所:アテネ・フランセ文化センター

アテネ・フランセ文化センターの「中原昌也への白紙委任状」は、結局、最初と最後にしか行けなかった。最終日はフィリップ・ガレルの『処女の寝台』。

アテネ・フランセ文化センターでの上映なので、日本語字幕があるかどうかをちゃんと確認しなければならないのに、それをまったく怠ってしまった。なんと、今日のフィリップ・ガレル監督『処女の寝台』は日本語字幕がないどころか、英語字幕もない上映だった。ゲッ、フランス語なんてぜんぜんわかんない、と恐れおののいていたのに、なんと、字幕がなくても大丈夫だった。セリフがそんなに無かったと云うこともあるのだけれど、キリストを題材にした宗教色の強い映画だったのでどっちにしろ訳がわからなかったのだ!

映画のあとの青山真治(映画監督)、坂本安美(アンスティチュ・フランセ日本 映画プログラム主任)+中原昌也のトークショーを聞いて、ああ、自分はフランス映画を見てないなあ、と落ち込んでしまう。フィリップ・ガレルも今日はじめて観たのだった。

そのトークの中で中原昌也さんがピエール・クレマンティのことを「うざい」と云い出して、そこからブニュエルの『昼顔』(これは見てるぞ)に話題が流れて、さらにカトリーヌ・ドヌーヴが「うざい」と云い出した。なるほど、そうかもしれない、と一度は膝を打ったけど、考えて見たら女優はうざくないとやれないんじゃないのかなあ。自分の好きな女優で云えばゴールディ・ホーンだって見ようによっては「うざい」し、美人女優に入るだろうシャーリーズ・セロンだって『ヤング≒アダルト』で「うざい」役が素晴らしかった。昔の日本の女優はことごとくそうじゃないのか。杉村春子とか山田五十鈴を持ち出すまでもなく、若尾文子だって、京マチ子だって、相当「うざい」よなあ。

→フィリップ・ガレル→ピエール・クレマンティ→フランス/1969→アテネ・フランセ文化センター→★★★

監督:金綺泳(キム・ギヨン)
出演:尹汝貞(ユン・ヨジュン)、玄吉洙(ヒョン・ギルス)
原題:죽어도 좋은 경험
制作:韓国/1988
URL:
場所:アテネ・フランセ文化センター

アテネ・フランセ文化センターで今日から始まった「中原昌也への白紙委任状」へ行ってみた。今日は金綺泳(キム・ギヨン)監督の『死んでもいい経験』。

今までも商業映画でありながら一般的な映画の作り方から外れている映画をたくさん観てきた。そしてそれを観たあとの感想は大きく二分して、中途半端な感想はまるっきりなかった。まったく酷くてつまらない映画か、なんだこりゃ!酷い!と云いながら見入ってしまう映画だ。金綺泳(キム・ギヨン)監督の映画は後者だった。

映画が終わった後に中原昌也さんと町山広美さんのトークがあって、そこで二人が話していたことから総合すると、キム・ギヨン監督の他の映画も、今日の『死んでもいい経験』のように、その展開は何? このシーンに何の意味があるの? 今の俳優の演技はいったい何だ! らしい。そしてそれを狙ってやっているのではなくて、大真面目にやっているんじゃないか? とのことだった。

最近、またロマン・ポランスキーに新たな暴行疑惑が持ち上がったらしい。ウディ・アレンの次回作は、まるで自身を彷彿とさせるような中年男性と15歳の少女との恋愛関係を恥ずかしげもなく描くらしい。まあ、映画なんて、ありきたりな感情を持った監督が作った映画なんて面白くも何ともない。ちょっと常識からはズレてないと、おっ!何だこりゃ! と眼を瞠るような面白い映画は作れないんだなあとキム・ギヨン監督の映画を観た正直な感想だった。

→金綺泳(キム・ギヨン)→尹汝貞(ユン・ヨジュン)→韓国/1988→アテネ・フランセ文化センター→★★★

監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
出演:ライアン・ゴズリング、ハリソン・フォード、アナ・デ・アルマス、シルヴィア・フークス、ロビン・ライト、マッケンジー・デイヴィス、カーラ・ジュリ、レニー・ジェームズ、デイヴ・バウティスタ、ジャレッド・レト
原題:Blade Runner 2049
制作:アメリカ/2017
URL:http://www.bladerunner2049.jp
場所:109シネマズ木場

1982年に公開されたリドリー・スコット監督の『ブレードランナー』の続編が35年目にしてついにやって来た。それも自分にとっての最近のイチオシ監督であるドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の手による映画化なので否応にも期待感が膨らんでしまった。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督にとってカルト映画とも云える前作の続編を作り上げることには大変なプレッシャーをも感じていたんじゃないかとおもう。でも、ドゥニ・ヴィルヌーヴの才能はそれを補って余りあるものだった。うまく自分の土俵に引っ張り込んで、クローネンバーグとかエゴヤンとかとも共通するカナダ人監督特有の温かみのある人間を排除するような寒々しい世界を作り上げていた。特に、ロサンジェルス市内の酸性雨の降る湿った風景(前作を引き継いだイメージ)やウォレス社内の人工的な暗い風景とロサンジェルス郊外の赤っちゃけた風景との対比が素晴らしかった。前作の『ブレードランナー』にオマージュを捧げているような共通した部分もありながら、それでいて独自の世界を作り上げているアートディレクションにはとても感心した。

で、前作から引き継いでいる最大の謎が「デッカードはレプリカントなのか?」なんだけど、結局、今回も明快な解答はなかった。ただ、今回の映画では、主人公であるライアン・ゴズリング演じる「K」がレプリカントであることを明確にしていて、クライマックスでの「K」と「ラヴ」との格闘シーン(そのパンチの繰り出し方や不屈な耐久性)に、まるで前作の「デッカード」と「ロイ・バッティ」との格闘シーンと、おそらく、意識的にオーヴァーラップさせていることから判断するには、やはりデッカードはレプリカントだったんじゃないかとおもわざるを得ない作りにはなっている。さらに、「デッカード」の「ユニコーンの記憶」と「K」の「木馬の記憶」を対比させていることからも二人に共通項を見出すことができる。

となると、なぜ「デッカード」と「レイチェル」の二人のレプリカントに寿命の縛りがなかったのか、そしてレプリカント同士の生殖が可能なのか、と云う疑問が生まれてしまう。ここが今回の映画の最大のポイントで、そこに人間の世界の宗教が取り扱って来た「奇跡」を持ち込んでいることから、この二人がレプリカントたちの救世主的な祖となって、その娘である「アナ・ステリン」がそれを受け継ぐ教祖となって行くんじゃないかと想像してしまう。レプリカントたちを支えるのは「アナ・ステリン」が作った彼らの記憶との共感。

もし次回作があるとするのならば、人間とレプリカントとの全面戦争になるんじゃないのかあ。レプリカントたちを支えるのは「アナ教」ともなる「アナ・ステリン」、そしてそのコピーである「K」と云うことになるのかな。「K」が「ユダ」にならなければ良いのだけれど。

→ドゥニ・ヴィルヌーヴ→ライアン・ゴズリング→アメリカ/2017→109シネマズ木場→★★★★

監督:北野武
出演:ビートたけし、西田敏行、大森南朋、ピエール瀧、大杉漣、松重豊、白竜、光石研、原田泰造、中村育二、津田寛治、池内博之、塩見三省、岸部一徳
制作:「アウトレイジ 最終章」製作委員会(バンダイビジュアル、テレビ東京、東北新社、ワーナー・ブラザース映画、オフィス北野)/2017
URL:http://outrage-movie.jp
場所:109シネマズ木場

前作の『龍三と七人の子分たち』をまったく観に行く気が起きなかった北野武の映画だけど、『アウトレイジ』のシリーズは最終章でもあることだし、やはり観ておこうと重い腰をあげた。

『アウトレイジ』のシリーズは、いかつい顔の俳優陣が、なんだこのヤローバカヤロー、をどのように凄んで云えるかの品評会だった。そしてその「凄み」がマグマのように蓄積して行った結果のバイオレンスの描写を楽しむ映画だった。ところが『アウトレイジ 最終章』はその「凄み」がだいぶこじんまりとしてしまった。映画が始まってすぐのピエール瀧の「凄み」にはシリーズ共通の面白さを感じだのだけれど、その後に続くビートたけしを含む俳優陣の「凄み」にはまったく迫力がなく、どちらかと云うと年寄りの貧弱さがまさっていて、しょぼくれた感じが満載だった。特に塩見三省には病み上がりでもあることから痛々しさしか感じられなかった。

シリーズの最終章として、もっと枯れた味わいや哀愁が出ていれば文句はなかったのになあ。自分にとっての北野武の映画の最終章になってしまうのではないかと危惧してやまない。

→北野武→ビートたけし→「アウトレイジ 最終章」製作委員会(バンダイビジュアル、テレビ東京、東北新社、ワーナー・ブラザース映画、オフィス北野)/2017→109シネマズ木場→★★★