監督:ボブ・ペルシケッティ、ピーター・ラムジー、ロドニー・ロスマン
声:小野賢章、宮野真守、悠木碧、大塚明夫、高橋李依、吉野裕行、中村悠一、玄田哲章、稲田徹
原題:Spider-Man: Into the Spider-Verse
制作:アメリカ/2018
URL:http://www.spider-verse.jp/site/
場所:109シネマズ菖蒲

今年のアカデミー賞の長編アニメ映画賞に細田守監督の『未来のミライ』がノミネートされて、外国語映画賞にノミネートされた『万引き家族』とともに日本でも大きなニュースになった。で、日本では誰もが『未来のミライ』の受賞を願っているような雰囲気につつまれていたのだけれど、その映画の出来に「?」だった自分にとっては、まあ、日本のアニメが評価されるのは嬉しいが、ほかの候補の、例えば『インクレディブル・ファミリー』とか『シュガー・ラッシュ:オンライン』のほうが面白かったよな、なんてことをおもったりして、ちょっと複雑な気分で授賞式を見守っていた。

受賞したのは、5本のノミネーション作品のうちで唯一まだ観ていなかった『スパイダーマン: スパイダーバース』だった。おー、どんな映画なんだろう? って観てみたら、主人公が黒人の高校生に設定されていて、そしてパラレルワールドのそれぞれの世界に存在するスパイダーマンたちのキャラクターも多様性に富んでいて、ああ、これなら最近の風潮に敏感なアカデミー会員にも受ける内容だなあ、ってことが第一印象の映画だった。もちろん、映画の出来もとても素晴らしくて、まあ、我々日本人にとっては特に、日本の萌系アニメーションを意識しているとおもわれるペニー・パーカーのキャラクターが日本のセルアニメ的二次元表現で、全体の3D表現のなかでぺたりと動いているところがとても共感できる部分だった。

とても申し訳ないんだけど『未来のミライ』よりもこちらが受賞できたのは、まあ、当然のことだった。

→ボブ・ペルシケッティ、ピーター・ラムジー、ロドニー・ロスマン→(声)小野賢章→アメリカ/2018→109シネマズ菖蒲→★★★☆

運び屋

監督:クリント・イーストウッド
出演:クリント・イーストウッド、ブラッドリー・クーパー、ローレンス・フィッシュバーン、マイケル・ペーニャ、ダイアン・ウィースト、アンディ・ガルシア、アリソン・イーストウッド、タイッサ・ファーミガ
原題:The Mule
制作:アメリカ/2018
URL:http://wwws.warnerbros.co.jp/hakobiyamovie/
場所:109シネマズ菖蒲

クリント・イーストウッドも88歳になって、いったいどんな映画を撮るんだろう? って期待していたら、とてもこじんまりとした映画を用意してきた。いや、もちろん、これはこれで素晴らしいのだけれど、その内容がクリント・イーストウッドの生きてきた人生を彷彿とさせるストーリーなので、どんなに才能のある人間と云えども、人生も最晩年に来たら家族に対する贖罪の念が湧き上がるものなのかと、その「人並み」なことに嬉しくもあり、がっかりでもあり、複雑なおもいの入り交じる映画になってしまった。

109シネマズ菖蒲でこの映画を観ていたとき、クリント・イーストウッドが余命いくばくもない妻役のダイアン・ウィーストを見舞ったシーンで、ぷっつりとシャットダウンしてしまった。停電だった。クリント・イーストウッドにとってこの映画の中で一番大切なシーンだったような気もするけど、それを拒否するかのように切れてしまったのは、もしかするとこちらのおもいが電波したんじゃないのかと鳥肌が立ってしまった。

→クリント・イーストウッド→クリント・イーストウッド→アメリカ/2018→109シネマズ菖蒲→★★★☆

グリーンブック

監督:ピーター・ファレリー
出演:ヴィゴ・モーテンセン、マハーシャラ・アリ、リンダ・カーデリーニ、ディメター・マリノフ、マイク・ハットン、イクバル・セバ、セバスティアン・マニスカルコ、ファン・ルイス、P・J・バーン
原題:Green Book
制作:アメリカ/2018
URL:https://gaga.ne.jp/greenbook/
場所:109シネマズ木場

ピーター・ファレリー監督の『グリーンブック』を観終わってすぐに、岩波現代文庫から出ている藤本和子著「塩を食う女たち――聞書・北米の黒人女性」を読み始めた。その本の最初の「生き残ることの意味 はじめに」に以下のように書いてあった。

わたしは黒人が「生きのびる」という言葉を使うときには、肉体の維持のことだけをいっているのではないと感じていた。「生きのびる」とは、人間らしさを、人間としての尊厳を手放さずに生き続けることを意味している。敗北の最終地点は人間らしさを捨てさるところにあると。

『グリーンブック』の中でマハーシャラ・アリが演じているピアニストのドン・シャーリーはまさに「人間としての尊厳」を手放さずに生きている黒人だった。実際のドン・シャーリーの育った環境は、奴隷としてアメリカに連れてこられた黒人の子孫とは違うのかもしれないけれど、黒人のDNAにある「人類の進化形」としての肉体的、そして精神的なたくましさからくるのであろう「人間としての尊厳」をどんなときにも維持し続けて生きている人物だった。

ドン・シャーリー役のマハーシャラ・アリの演技は、彼が画面に現れるだけでピンと背筋の立つオーラを発散させていて、品性の欠けるイタリアンを演じているヴィゴ・モーテンセンとのアンバランスさが緊張感を高めていると同時に、両極端の人間のあいだに起こりつつある化学変化に興味が引きつけられてしまう巧い映画だった。その巧さがちょっと鼻につくような気もするけど、まあ、それは贅沢な話だ。

→ピーター・ファレリー→ヴィゴ・モーテンセン→アメリカ/2018→109シネマズ木場→★★★★

ファースト・マン

監督:デイミアン・チャゼル
出演:ライアン・ゴズリング、クレア・フォイ、ジェイソン・クラーク、カイル・チャンドラー、コリー・ストール、クリストファー・アボット、キーラン・ハインズ
原題:First Man
制作:アメリカ/2018
URL:https://firstman.jp
場所:池袋HUMAXシネマズ

トム・ウルフが「ザ・ライト・スタッフ」でアメリカにおける宇宙計画の最初の七人(アラン・シェパード、ガス・グリソム、ジョン・グレン、ゴードン・クーパー、ウォルター・シラー、スコット・カーペンター、ディーク・スレイトン)の功績を描いたあとに、そのエピローグで「つぎの九人」と表現したジェミニ計画以降の宇宙飛行士たちが受けるだろう大衆の変化(つまり熱狂が過ぎ去った後のシビアな感情の芽生え)についてさらりと触れていた。そこを読んだときに、すでに月面着陸成功の大熱狂のニュースしか知らない自分にとっては、その意味することが何なのかいまいちピンとこなかった。

デイミアン・チャゼル監督が撮った人類初の月面着陸を成功させたニール・アームストロングの映画を観て、ああ確かに、相次ぐ実験の失敗、宇宙飛行士の死、湯水のように使うお金、そしてさらにベトナム戦争の泥沼化、公民権運動の激化などの時代背景から、すでに宇宙飛行士たちが受けるだろう風が逆風に転じていることをトム・ウルフの文章から察するべきだった。

だからトム・ウルフの原作を映画化したフィリップ・カウフマンの『ライトスタッフ』がチャック・イエーガーを崇める七人の使徒のような寓話として宇宙計画を描いていたのに対して、今回の『ファースト・マン』がやたらと暗く、精神的に圧迫されていて、閉塞感が漂う映画になるのは当然のことだったのかもしれない。『ライトスタッフ』が大好きな自分にとっては、その落差を埋めるのにちょっと苦労したけれど、ああでも、これはこれでとても面白かった。

アポロ11号の成功があまりにも出来すぎていたので、本当に成功していたのか? の陰謀論が出てしまうのもうなづけてしまう。当時はそれだけアポロ計画への風当たりは強く、成功せざるを得ない状況に追い込まれていた。そんな中で月面着陸を成功させたニール・アームストロングの凄さは計り知れない。デイミアン・チャゼル監督はニール・アームストロングの孤独な戦いを彼の規格外の人間的性も含めてよく描いていた。

→デイミアン・チャゼル→ライアン・ゴズリング→アメリカ/2018→池袋HUMAXシネマズ→★★★★

監督:ヨルゴス・ランティモス
出演:オリヴィア・コールマン、エマ・ストーン、レイチェル・ワイズ、ニコラス・ホルト、ジョー・アルウィン、マーク・ゲイティス、ジェームズ・スミス
原題:The Favourite
制作:アイルランド、イギリス、アメリカ/2018
URL:http://www.foxmovies-jp.com/Joouheika/
場所:Movixさいたま

ヨルゴス・ランティモスの映画はいつも人間の不気味さ、気持ち悪さを前面に押し出してくる。不快感を感じずにはいられない描写が多い。でも、実際の人間が綺麗なものかと云えば、よくよく考えるとそうじゃない。汚いものだ。その汚いものを直視させてくれているわけだから、感謝しこそすれ嫌悪すべきではない、とはおもう。映画を観ると云う行為は、汚い現実を逃避するために綺麗なものだけを観たいと云う側面は確かにあるのだけど、そればっかりだと飽きてしまうので、ヨルゴス・ランティモスの映画のようなものが時にはあるとすこぶる面白く感じてしまう。

『女王陛下のお気に入り』のオリヴィア・コールマンが演じたアン女王も醜かった。感情の起伏が激しく、肥満のうえに痛風持ちで一人では十分に歩けず、6回の死産、6回の流産を経験したことからか精神的にも破綻をきたしているように見える人物だった。まさに、ヨルゴス・ランティモスが題材に選ぶにふさわしい人物で、オリヴィア・コールマンにとってもアカデミー主演女優賞を獲るためにあるようなおいしい役柄だった。

なぜだか嘔吐のある映画に面白い映画が多く、誰だかTwitterで「ゲロ映画にハズレなし」と云っていたことに全面的に同意したのだけれど、この映画もそうなるかとおもいきや、ああ、やっぱりエマ・ストーンが個人的にダメだ。いや、この役柄はもっと華奢で可憐だけど野心むき出しのギャップを出せる女優のほうがが良かったんじゃないかなあ。エル・ファニングとか。

→ヨルゴス・ランティモス→オリヴィア・コールマン→アイルランド、イギリス、アメリカ/2018→Movixさいたま→★★★☆

競馬場

監督:フレデリック・ワイズマン
出演:ニューヨーク・ベルモント競馬場のひとびと
原題:Racetrack
制作:アメリカ/1985
URL:
場所:アテネ・フランセ文化センター

競馬の世界をカメラへ収めようとしたときに、馬の交尾からはじめるのは交配こそがすべての競馬の世界(ゲーム「ダービースタリオン」で習った)では当然のことかもしれないけれど、フレデリック・ワイズマンはそこから入るのか、と驚いたと同時に嬉しくなってしまった。そう考えると、競馬の世界にはさまざまな人たちが数多く関わっていて、大きなお金が動く世界だからこそ政治的な人々も登場してきて、1976年の『肉』や1980年の『モデル』とはまた違ったビッグビジネスを描いた業界ドキュメンタリーだった。おそらくは日本の競馬の世界もアメリカのものとそんなに違わないんじゃないかともおもえて、そこにもまたフレデリック・ワイズマンのドキュメンタリーの時代や場所を超越した普遍的な側面も見えて面白かった。

→フレデリック・ワイズマン→ニューヨーク・ベルモント競馬場のひとびと→アメリカ/1985→アテネ・フランセ文化センター→★★★☆

少年裁判所

監督:フレデリック・ワイズマン
出演:テネシー州メンフィスにあるメンフィス少年裁判所616のひとびと
原題:Juvenile Court
制作:アメリカ/1973
URL:
場所:アテネ・フランセ文化センター

今回のフレデリック・ワイズマンはテネシー州メンフィスにある少年裁判所が舞台。そのカメラに映る少年、少女たちは一様にしてどこか弱々しく、責任をたえず誰かに転嫁していて、しっかりと地に足がついている感じのしない幽霊のような人間ばかりだった。これって、最近の日本のニュースに登場する少年、少女の犯罪者とまったく同じなんじゃないかと考えてしまう。場所や時代や人種や宗教が違えども、少年犯罪の多くの原因が肉親との関係にあるのだろうから、アメリカでも日本でも少年犯罪者の心理には共通のものがあるのかもしれない。そう考えると、やはりフレデリック・ワイズマンのドキュメンタリーは、どの国のどの時代に観ても、その時々の社会問題にぴたりと寄り添ってくる。この凄さをどのように表現して良いかもわからないほどにスゴイ!

→フレデリック・ワイズマン→テネシー州メンフィスにあるメンフィス少年裁判所616のひとびと→アメリカ/1973→アテネ・フランセ文化センター→★★★☆

ボクシング・ジム

監督:フレデリック・ワイズマン
出演:テキサス州オースティンにあるボクシング・ジム「ロード・ジム」のひとびと
原題:Boxing Gym
制作:アメリカ/2010
URL:
場所:アテネ・フランセ文化センター

昨年から続いてきたアテネ・フランセ文化センターでの「フレデリック・ワイズマンの足跡」も終盤に近づいてきて、今までに観たフレデリック・ワイズマンの映画は全部で何本になるんだろうと数えたら、今回の『ボクシング・ジム』も含めてまだ19本しか観ていない。数えると2017年の『エクス・リブリス ニューヨーク公共図書館』までに44本も撮っているわけだからまだ半分も観ていないことになる。ああ、もっと観る機会が増えたらなあ。できればNetflixにあると嬉しいんだけど、配信で自作が見られることをはたしてフレデリック・ワイズマンが許してくれるかどうか。

フレデリック・ワイズマンの『ボクシング・ジム』に出てくるテキサス州オースティンにあるボクシング・ジムは、壁にオスカー・デ・ラ・ホーヤやロベルト・デュランのポスターがかかっていて、おそらくは古くから営業をしていることがよくわかるオープニングからはじまる。そこでの風景は、ボクシングならばまずは対戦を見たいとおもう我々の欲求を軽くいなして、少なくともスパーリングぐらいは見せてくれるんだろうと云う欲求もほんのちょっぴりしか実現してくれなくて、ただただ、たんたんと練習風景を追いかけたドキュメンタリーだった。

フレデリック・ワイズマンのドキュメンタリー映画は、この単調ともおもえる練習風景を繰り返し見せることで、まるでそこにいる感覚を我々に次第に覚えさせていって、映画を観ている時間や空間がそのままその当時のボクシング・ジムの時間や空間と同調してしまう恐ろしさ(楽しさ)にあることがまたはっきりとこの映画で認識させてくれた。

さあ、次は1973年の『少年裁判所』にトリップしよう。

→フレデリック・ワイズマン→テキサス州オースティンにあるボクシング・ジム「ロード・ジム」のひとびと→アメリカ/2010→アテネ・フランセ文化センター→★★★☆

監督:イングマール・ベルイマン
出演:ハリエット・アンデルセン、グンナール・ビョルンストランド、マックス・フォン・シドー、ラーシュ・パッスコード
原題:Såsom i en spegel
制作:スウェーデン/1961
URL:
場所:新文芸坐

はじめてのイングマール・ベルイマンの映画はテレビ(たしかNHK教育)で見た『秋のソナタ』だった。そこで見せられた母娘のあいだで起こる確執のありさまはどんなホラー映画よりも怖かった。身内だからこそ放つ辛辣な言葉による罵り合いを、映画を観ているものの心に響くほどに映像化出来る監督の手腕にびっくりした。その後に観た『叫びとささやき』『ファニーとアレクサンデル』『ある結婚の風景』も『秋のソナタ』と同じように家族や夫婦の関係を鋭くえぐる映画で、自分にとっては生涯のベストにしても良いくらいの映画ばかりだった。

それからイングマール・ベルイマンに興味を持って過去の映画をさかのぼってみると、例えば『野いちご』とかを見てみると、今まで見てきた後期のベルイマンの映画とはちょっと様子が違う。人間を描いていることには変わりはないのだけれど、そこには日本人にはわかりにくい宗教色が濃く反映していて、なおかつ信仰への葛藤などもストーリーのベースとなっているので、何度も咀嚼して見ないと理解することの難しい映画ばかりだった。

そんな中で、やっと後期のベルイマン映画の原点とも云える映画に出会った。それがこの『鏡の中にある如く』だった。作家である父親と娘と息子、そしてその娘の夫だけが登場するこの映画は、おだやかに見える家族関係の中に潜む愛憎が次第に浮き彫りになって、それが細かく衝突して行きながら最後には大きな爆発となって終曲を迎えてしまうストーリーで、これはまさに『秋のソナタ』だった。登場人物が4人だけと云う、舞台劇さながらの凝縮した人間描写も後期のベルイマンの映画に通じていた。

こうやってベルイマンの映画のことを考えていると、そう云えばポール・トーマス・アンダーソンの映画が好きな点もこれと似通っているなあ、とおもいだした。ベルイマンとポール・トーマス・アンダーソンを結びつけている評論を読んだことはないけど、うん、二人は似ているとおもう。愛憎があってこそが正しい人間関係なんだとおもいださせてくれる映画作家が大好きだ。

→イングマール・ベルイマン→ハリエット・アンデルセン→スウェーデン/1961→新文芸坐→★★★★

監督:イングマール・ベルイマン
出演:マックス・フォン・シドー、ビルギッタ・ヴァルベルイ、グンネル・リンドブロム、ビルギッタ・ペテルソン
原題:Jungfrukällan
制作:スウェーデン/1960
URL:
場所:新文芸坐

もし自分が信仰に篤くて日々の精進も怠らないのに酷い災難に会ってしまったとしたら、神が試練を与えてくださっているんだわ、なんてことを云えるほどの人間に果たしてなれるのかどうか。一回きりの災難だけならまだしもそれが何度も続いたとしたら、確実に「神の沈黙」を呪うに違いない。『処女の泉』のマックス・フォン・シドーのように、娘がレイプされて殺されたのなら、信仰的には許されない復讐を誓うに違いない。

神よ、それでも黙っているのか。

ベルイマンの初期の映画はそれに尽きるとおもう。信仰心も何も無い自分なのにいつもそれを考えてしまう。

もし自分が何かしらの宗教を信仰するとしたら、奇跡を行ってもらうためではなくて、日々の生活を律するための拠り所にするためだけだろうなあ。

→イングマール・ベルイマン→マックス・フォン・シドー→スウェーデン/1960→新文芸坐→★★★☆