監督:フレデリック・ワイズマン
出演:マーティ・ウォルシュ(ボストン市長)ほかボストン市のみなさん
原題:City Hall
制作:アメリカ/2020
URL:https://cityhall-movie.com
場所:ヒューマントラストシネマ有楽町

フレデリック・ワイズマンの映画がやってきた。2019年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で『インディアナ州モンロヴィア』を観て以来2年ぶり。公開を待ちわびる映画監督が何人かいるのだけれど、フレデリック・ワイズマンもその一人だ。

でも、フレデリック・ワイズマンのドキュメンタリー映画はどれも長尺なので、映画館に観に行くとなると一大イベントになってしまう。今回の『ボストン市庁舎』も274分の映画で、11時40分から観はじめて、1回の休憩を挟んで16時31分まで映画館にいることとなった。

いつも不思議におもうのは、フレデリック・ワイズマンの映画はその4時間30分もの長いあいだ、映画の題材に没頭できてしまうことだった。『ボストン市庁舎』の場合でも、まるで自分がボストン市民のような感覚に陥っていた。だから、なんとなく、東洋系の人に同胞感を持ってしまって、市の許可を得て大麻の店を開こうとする中国系の事業者の住民説明会では、近所の黒人のおばちゃんたちに、あーだこーだと、まくし立てられる側の中に自分が存在していた。とにかくアメリカの人は、どんなクラスの人でも、ちゃんと理論的に相手に対して要求できるんだよなあ。フレデリック・ワイズマンの映画を観て、いつもそこを感心してしまう。日本人もそうありたいもんだ。

マサチューセッツ州と云えば、1620年にメイフラワー号でイギリス人の清教徒が入植したところで、アメリカの歴史においても一番古い場所なので、なんとなくキリスト教的に保守的な地域ではないかと勝手におもっていた。ところが時代も大きく変わっていて、ヒスパニックの人も、南米の人も、アジア系の人も隣合わせで暮らしている。だからこそ問題も起きるのだろうし、でもだからこそダイナミックなんだろうし。そのような多種多様な問題をマーティ・ウォルシュ、ボストン市長はうまくまとめているように見えた。ちょっと、ボストンに暮らしてみたくなってしまった。

→フレデリック・ワイズマン→マーティ・ウォルシュ(ボストン市長)→アメリカ/2020→ヒューマントラストシネマ有楽町→★★★★

監督:クロエ・ジャオ
出演:ジェンマ・チャン、リチャード・マッデン、クメイル・ナンジアニ、リア・マクヒュー、ブライアン・タイリー・ヘンリー、ローレン・リドロフ、バリー・コーガン、ドン・リー(マ・ドンソク)、キット・ハリントン、サルマ・ハエック、アンジェリーナ・ジョリー
原題:Eternals
制作:アメリカ/2021
URL:https://marvel.disney.co.jp/movie/eternals.html
場所:109シネマズ木場

今年のアカデミー作品賞を獲得した『ノマドランド』を撮ったクロエ・ジャオ監督がマーベル・コミックの「エターナルズ」を監督すると聞いたときに、それはまったく畑違いの映画を撮ることになるんじゃないのか、と誰しもがおもったことだろうとおもう。ところが、WOWOWでのアカデミー賞授賞式を見ていたら、途中に挟み込まれたクロエ・ジャオ監督へのオンラインのインタビューで、SexyZoneの中島健人からの問いに対して日本のコミック「幽☆遊☆白書」が大好きで、よく日本のコミックを読んでいたとの答えが帰ってきた。なんと、それだったら話しは変わってくる。クロエ・ジャオ監督の『エターナルズ』は、アン・リーの『ハルク』みたいなことにはならないのではないか、と、ちょっとだけ安心してしまった。

そして実際にクロエ・ジャオ監督の『エターナルズ』を観てみた。

うーん。ストーリーが複雑すぎて、なにがなにやら。
なので、映画を観終わってからネット検索して確認した。
おもいっきり要約すると、

宇宙創生のときから存在するコズミック・ビーイングと呼ばれる不死の種族「セレスティアルズ」はさまざまな惑星に知的生命体を誕生させてきた。同時に、その知的生命体を守るために「ディヴィアンツ」という生物をも作り出した。

ところが「ディヴィアンツ」が知的生命体をも捕食しはじめたので、「セレスティアルズ」は「ディヴィアンツ」を駆除するために「エターナルズ」を作り出した。地球にも7000年前に10人の「エターナルズ」が派遣された。

地球の「ディヴィアンツ」をすべて駆除したかに見えた10人の「エターナルズ」だが、突如、現代において「ディヴィアンツ」が復活したことに驚く。

再び「ディヴィアンツ」との戦いはじまる「エターナルズ」だが、「セレスティアルズ」の本当の目的は惑星の知的生命体のエネルギーを使って新たな「セレスティアルズ」を出現させることだった。

長らく地球の人類と生活をともにしてきた「エターナルズ」は、「セレスティアルズ」に意に反して、新たな「セレスティアルズ」である「ティアマト」の出現を阻止するべく「エターナルズ」全員のエネルギーをまとめる「ユニ・マインド」という装置を使って人類を助ける。

と云うような内容だった。いやー、何の予備知識もなく、これを理解するのにはちょっと無理があった。とは云っても、つまらなかったわけではなく、それなりに楽しんで観てしまったのだけれども。

で、クロエ・ジャオ監督がこのマーベルの映画を撮る意味はあったのだろうか。10人の「エターナルズ」が、それぞれ持っている能力に違いがあって、考え方にも大きな隔たりが合って、そのあたりの多様性を描いていることにクロエ・ジャオ監督が撮る意味を感じられなくもないけれど、うーん、こじつけのようにもおもえる。まあ、今回も、マーベルの映画は誰が撮ったとしても、一定の水準を超える映画を作ることのできる凄さを感じる回でした。

→クロエ・ジャオ→ジェンマ・チャン→アメリカ/2021→109シネマズ木場→★★★☆

監督:アレクサンダー・ナナウ
出演:カタリン・トロンタン、カメリア・ロイウ、テディ・ウルスレァヌ、ブラド・ボイクレスク、ナルチス・ホジャ
原題:Colectiv
制作:ルーマニア、ルクセンブルク、ドイツ/2019
URL:https://transformer.co.jp/m/colectiv/
場所:ヒューマントラストシネマ有楽町

2015年10月30日、ルーマニアの首都ブカレストにあるナイトクラブ「コレクティブ」で火災が発生。ひとつしかない出口に場内にいた人びとが殺到して、逃げ遅れた27人が死亡。さらに、その後の数ヶ月間で適切な治療を受けられなかった負傷者37人が亡くなる事態が発生した。

このドキュメンタリーのテーマは、「コレクティブ」の火災原因の探求がメインではないかと勝手に想像していた。ところがその火災は、この映画の語るべきテーマのきっかけに過ぎず、次第に社会主義国時代から引き継いでしまった製薬会社と病院経営者、政府関係者の巨大な癒着が、スポーツ紙の記者(と云うところがスゴイ!)によって明らかにされて行く過程が描かれていて、さらに腐敗にまみれた国のシステムを変革しようと奮闘する新しい大臣へ次第にカメラの焦点が当てられて行く。

このドキュメンタリー映画の驚くべきところは、現職大臣の執務室にまでカメラを入れているところだった。アレクサンダー・ナナウ監督が政府とどのような交渉をしたのかわからないのだけれども、そこまでオープンにしようとする姿勢が国としてあるのならば、すでに問題は解決の方向に進んでいるとも感じられるシーンだった。社会主義国であった時代の暗いイメージがあるからこそ、そこから反動するパワーが強いのかもしれない。透明性や可視化が大事と云いながらも黒塗りの文章しか出せない国よりは数倍マシに見えてしまった。

→アレクサンダー・ナナウ→カタリン・トロンタン→ルーマニア、ルクセンブルク、ドイツ/2019→ヒューマントラストシネマ有楽町→★★★★

監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
出演:ティモシー・シャラメ、レベッカ・ファーガソン、オスカー・アイザック、ジョシュ・ブローリン、ステラン・スカルスガルド、デイヴ・バウティスタ、スティーヴン・マッキンリー・ヘンダーソン、ゼンデイヤ、張震、シャロン・ダンカン=ブルースター、シャーロット・ランプリング、ジェイソン・モモア、ハビエル・バルデム
原題:Dune
制作:アメリカ/2021
URL:https://wwws.warnerbros.co.jp/dune-movie/
場所:109シネマズ菖蒲

デイヴィッド・リンチが1984年に撮った『デューン/砂の惑星』は、 フランク・ハーバートの壮大な小説のダイジェスト版でしかない、としか評価されなかった。たしかに、そうだったとおもう。もちろんデイヴィッド・リンチだって、ふんだんに予算があれば、アレハンドロ・ホドロフスキー監督が最初に構想した上映時間10時間以上にもなる「DUNE」と同等のものを撮りたかったはずだった。でも、当時はそんなことは許されるべくもなく、のちに3時間9分の再編集版もTV放映されたが、それを見ても印象としては映画版とそんなに変わらなかった。

デイヴィッド・リンチ版から月日が経ち、映画の制作環境もめまぐるしく変化して、ストリーミング配信での事業展開も加味されるようになったので、そこでの視聴が期待されるようなSF的な題材は、おそらくは予算が付きやすくなったのではないかと予想されるところでのドゥニ・ヴィルヌーヴ版『DUNE/デューン 砂の惑星』だった。

この映画も、やはりデイヴィッド・リンチ版と同じように1本で完結する映画ではないかとおもっていた。ところが、アメリカでの公開から1週間後、『Dune: Part Two』が2023年10月に劇場公開されることが決定した、との知らせが飛び込んできた。えっ? この映画は最初から2部作として作られたのか? それとも1本の映画として作って、興行成績を見てから続編の映画を作ることにしたのか?

今回の『Dune: Part One』を観て、ドゥニ・ヴィルヌーヴはこの映画を2部作のうちの前半としてしっかりと構想したとはおもえなかった。なんだろう? 都合上、バッサリと2時間半で切ったような映画に見えてしまった。だから、映画を観終わったあとの達成感が乏しく、次の章へと引き渡すワクワク感がまったくなかった。

だから、この『Dune: Part One』を見る限りでは、ダイジェスト版と云われようが何だろうが、やりたい放題のビジュアルを展開させたデイヴィッド・リンチ版のほうが良く見えてしまった。

とは云え、まだ「Part One」だけなので、やはり「Part Two」期待したいところ。

→ドゥニ・ヴィルヌーヴ→ティモシー・シャラメ→アメリカ/2021→109シネマズ菖蒲→★★★

監督:リドリー・スコット
出演:マット・デイモン、アダム・ドライバー、ジョディ・カマー、マートン・チョーカシュ、マイケル・マケルハットン、クライヴ・ラッセル、ハリエット・ウォルター、ナサニエル・パーカー、サム・ヘイゼルダイン、ベン・アフレック
原題:The Last Duel
制作:イギリス、アメリカ/2021
URL:https://www.20thcenturystudios.jp/movies/kettosaiban
場所:109シネマズ菖蒲

リドリー・スコットの『エイリアン』が話題になったころ、すぐさま彼の処女作が日本でも公開された。そのタイトルは『The Duellists』。邦題は『デュエリスト/決闘者』。時代は1800年ごろのフランス。粘着質のハーヴェイ・カイテルに目をつけられてしまったキース・キャラダインのふたりが決闘を繰り返すストーリーで、男の執念がぶつかり合う凄まじい映画だった。

その『The Duellists(デュエリスト/決闘者)』から44年。リドリー・スコットの新作として『The Last Duel』と云うタイトルの映画が公開された。邦題は『最後の決闘裁判』。時代は14世紀末の百年戦争中のフランス。親友であった従騎士のマット・デイモンとアダム・ドライバーのあいだに次第に溝ができて、マット・デイモンの妻ジョディ・カマーをアダム・ドライバーが性的暴行をしたことから裁判に発展。ふたりが決闘をすることでケリをつけることになる。

リドリー・スコットも83歳。処女作と似たような題材の映画を撮ることで、彼の映画人生の締めくくりをするつもりなのかと勘ぐってしまったが、マット・デイモンとアダム・ドライバーの決闘は、ハーヴェイ・カイテルとキース・キャラダインの決闘よりもさらに凄まじく、夫が負ければ生きたまま火あぶりの刑に処せられてしまう(どうしてそんなルールなんだ!)妻のジョディ・カマーの心理的動揺にも緊迫感があって、歳をとってもなお衰えを見せない、リドリー・スコットでしか撮れない鬼気迫る映画だった。

映画の構成としては、まるで黒澤明の『羅生門』(つまり芥川龍之介の小説「藪の中」)のような、マット・デイモン、アダム・ドライバー、ジョディ・カマーのそれぞれの視点で、決闘へと向かう顛末が繰り返して語られていて、『羅生門』ほどには食い違いを見せない、その微妙な視点の差異を見るのも楽しかった。

で、この3つの視点の中から、ジョディ・カマーがアダム・ドライバーに対して恋愛的な感情を持ったのか、がポイントにになって行く。当時は、セックスに快楽がなければ子どもはできない、と云う訳のわからない迷信がまかり通っていて、事件後に妊娠してしまったジョディ・カマーに対して、そのお腹の子どもはアダム・ドライバーの子で、快楽があったからこそ懐妊したのではないのか、と云う裁判での論点の解答を3つの視点から探って行くことができる。

つまりこの映画は、『デュエリスト/決闘者』と同じように男ふたりの決闘がメインの映画なのかとおもって観ていたら、そうではなくて、不必要にプライベートな部分にまでズケズケと踏み込んでくる女性へのレイプ裁判の理不尽さがメインのテーマだった。この映画で描かれる時代から長い時間を経ているのに、まるで現代の女性への人権を踏みにじったレイプ裁判を見ているようだった。

リドリー・スコットの、なおも衰えの見せない演出があってこその鬼気迫る人間模様が素晴らしかった。すぐさま次回作の『ハウス・オブ・グッチ』が控えている。楽しみだ。

→リドリー・スコット→マット・デイモン→ボイギリス、アメリカ/2021→109シネマズ菖蒲→★★★★

監督:ヤスミラ・ジュバニッチ
出演:ヤスナ・ジュリチッチ、イズディン・バイロヴィッチ、ボリス・イサコヴィッチ、ヨハン・ヘルデンベルグ、レイモント・ティリ、ボリス・レアー、ディーノ・バイロヴィッチ、エミール・ハジハフィズベゴヴィッチ、エディタ・マロヴチッチ、エミナ・ムフティッチ、トゥーン・ルイクス、ジョーズブラウアーズ、レイナウト・ブッスマーカー、エルミン・ブラヴォ、ソル・ヴィンケン、ミシャ・フルショフ、ユダ・ゴスリンガ、エルミン・シヤミヤ、アウバン・ウカイ
原題:Quo vadis, Aida?
制作:ボスニア・ヘルツェゴビナ、オーストリア、ルーマニア、オランダ、ドイツ、ポーランド、フランス、ノルウェー/2020
URL:https://aida-movie.com
場所:新宿武蔵野館

バルカン半島の北西部に位置していたユーゴスラビア社会主義連邦共和国は1991年に起きたユーゴスラビア紛争によって崩壊し、ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年3月にボシュニャク人(ムスリム人)を中心に独立を宣言した。この独立に不満も持ったボスニア・ヘルツェゴビナ内のセルビア人民族主義者は、ボスニア北部を中心に「スルプスカ共和国」を設立。クロアチア人の民族主義者も「ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国」を設立して、この三者による対立がボスニア・ヘルツェゴビナ紛争へと発展した。

セルビア共和国に張り出すようにあるボスニア・ヘルツェゴビナの東部地域は、セルビア人にとってはセルビア共和国と地理的に連続した領土としか考えられず、ボシュニャク人住民の殺害や強制追放を繰り返す事態が起きていた。国連によって安全地域と設定された都市スレブレニツァには、そんな迫害から逃れたボシュニャク人の多くが流れ込んでいた。

1995年7月11日、スレブレニツァには国連保護隊(UNPROFOR)のオランダ兵士が駐留していたにもかかわらず、セルビア人の武装勢力が乗り込んできた。そして、ボシュニャク人の成人男性や少年約8000人を連れ去って殺害し、遺体を集団墓地に埋めると云うジェノサイドが起きた。

ヤスミラ・ジュバニッチ監督の『アイダよ、何処へ?』は、この「スレブレニツァの虐殺」を描いている。

この映画の中でのセルビア人武装勢力の野卑な行動があまりにも目に余るのだけれど、いろいろ調べてみるとボシュニャク人側がセルビア人を虐殺する事件も起きていて、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争ほど、人間が断ち切ることのできない憎しみの連鎖が繰り返されてしまった戦争だったとおもい知らされてしまう。とにかく、同じ街に住んでいた隣の家の親父が敵となって、そいつに殺されることって何なん? と日本人には想像もできない世界を描いている。

映画の最後には、一見、平和を取り戻したようにボシュニャク人もセルビア人も一緒に暮らしているスレブレニツァが描かれているのだけれど、ちょっとしたきっかけでまた憎しみの連鎖が繰り返される可能性が透けて見えて、なんとも微妙な綱渡りの世界にも見える怖いラストシーンだった。

→ヤスミラ・ジュバニッチ→ヤスナ・ジュリチッチ→ボスニア・ヘルツェゴビナ、オーストリア、ルーマニア、オランダ、ドイツ、ポーランド、フランス、ノルウェー/2020→新宿武蔵野館→★★★★

監督:キャリー・ジョージ・フクナガ
出演:ダニエル・クレイグ、ラミ・マレック、レア・セドゥ、ラシャーナ・リンチ、ベン・ウィショー、アナ・デ・アルマス、ナオミ・ハリス、ジェフリー・ライト、クリストフ・ヴァルツ、レイフ・ファインズ
原題:No Time to Die
制作:イギリス、アメリカ/2021
URL:https://www.007.com/no-time-to-die-jp/
場所:109シネマズ木場

イーオン・プロダクションズが製作する「ジェームズ・ボンド」シリーズもこの『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』で25作目となるそうだ。その他の独立プロダクションが制作した『007/カジノ・ロワイヤル』(1967)と『ネバーセイ・ネバーアゲイン』(1983)を合わせても、おそらくは27本全部見ているとおもう。

ショーン・コネリーが方向づけたジェームズ・ボンドのイメージは、その後のロジャー・ムーアやピアース・ブロスナンも壊さないように大切に受け継いでいたとおもう。でも、ダニエル・クレイグが演るのジェームズ・ボンドは、映画のVFX技術の進化も相まって、アベンジャーズ並みのタフで不死身なヒーローとしてまるっきりイメージが変わってしまった。と云っても、それが悪いわけではなくて、時代とともに変化して行くジェームズ・ボンドを見るのも楽しかった。

ただ、軽妙洒脱なジェームズ・ボンドだろうと、仏頂面の大柄なジェームズ・ボンドだろうと、その対立する悪役に魅力がなければ映画として面白みに欠けるのは云うまでもないことだった。今回の『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』のラミ・マレックが演じる悪役サフィンは、ジェームズ・ボンドとの対立構図が曖昧で、そこにクリストフ・ヴァルツの「スペクター」元首領が絡むので、なおさら対立構図が分散してしまった。この映画でダニエル・クレイグのジェームズ・ボンドが終わるとするならば、ちょっと寂しい最後だった。

→キャリー・ジョージ・フクナガ→ダニエル・クレイグ→イギリス、アメリカ/2021→109シネマズ木場→★★★

監督:アンドリュー・レヴィタス
出演:ジョニー・デップ、美波、真田広之、國村隼、加瀬亮、浅野忠信、岩瀬晶子、ビル・ナイ
原題:Minamata
制作:アメリカ/2020
URL:https://longride.jp/minamata/
場所:109シネマズ菖蒲

日本の高度成長期に起こった公害病の中のひとつの水俣病のことは、多くの日本人にとっては遠い過去の出来事として忘れ去られてしまっているような気がする。自分はそうだった。でも本当はまだ闘っている人たちが大勢いて、すべてが終わったわけではないと云うことを、なんと、アメリカ映画でおもい知らされることになってしまった。

アンドリュー・レヴィタス監督の映画『MINAMATA-ミナマタ-』は、アメリカの写真家W・ユージン・スミスが日本人からの要請をきっかけとして、日本の水俣で起こっている水俣病のことを写真に撮りに行く過程が描かれている。すでに子供とも疎遠になり、酒に溺れた生活を送っていたユージン・スミスは、雑誌『ライフ』との対立もあって仕事に情熱を持てないでいたが、現地の水俣の人たちとの交流を進めて行くうちに次第に水俣病の恐ろしさを理解して、世界の人びとに水俣の事実を知ってもらうべく決定的な写真を撮ろうと気持ちが変化していく過程がこの映画のメインのテーマとなっている。

この映画は、その決定的な写真として以下のリンクにある「入浴する智子と母」をハイライトに持ってきていた。

http://reelfoto.blogspot.com/2012/07/w-eugene-smith-unflinchingly-honest.html

ただ、この『MINAMATA-ミナマタ-』ような社会的な問題を扱っている映画の場合は、いろいろな要素が複雑に絡み合っている場合が多いので、そのすべてのことを網羅しようとすると、長尺にでもしないかぎり、やや散漫な映画になってしまうのは残念なところだった。水俣病の患者を持つ家族のくらし、水俣病の原因を作った企業チッソへの抗議運動をする人たち、そしてユージン・スミス自身の仕事への葛藤など。どれも重要な要素になるので、たとえば水俣病を今もって解決されていない問題だと認識している人たちはこの映画を観て生ぬるいとおもうだろうし、自分としては「入浴する智子と母」の写真をメインとするのなら、もっとユージン・スミスと住民との交流を丁寧に描くべきだともおもってしまったし。

テレビ朝日系列のドキュメンタリー「テレメンタリー2020」で放映された「MINAMATA~ユージン・スミスの遺志~」は、ユージン・スミスと水俣の少女との交流を扱っていて、彼女の心の中を写真で映し出せない彼の苦悩も見えて素晴らしい内容だった。

『MINAMATA-ミナマタ-』も、これくらいにポイントを絞れていれば、もっと引き締まった映画になっていたのかもしれない。

まあ、でも、この映画のラストクレジットに流れる世界各地で起きている産業廃棄物による公害の写真とともに、水俣病はまだ終わっていないんだと認識させられただけでも、この映画を観てよかったとはおもう。

→アンドリュー・レヴィタス→ジョニー・デップ→アメリカ/2020→109シネマズ菖蒲→★★★

監督:今井友樹
出演:岡林利保、川村芳久、川村紗耶佳、北岡竜之、黒石菊野、黒石正種、繁村周、清和研二、田岡果穂、田岡佐奈、田岡重雄、高橋太知子、高橋寅井、高橋晴雄、高橋富士子、高橋正代、田村寛、田村亮二、筒井茂位、筒井政和、筒井良則、筒井千代、筒井信子、筒井秀、筒井藤代、濵田博正、古松信彬、山下剛司、和田章、和田末子、和田節子、和田光正、和田守正、和田博、和田福美子、スティールパンの演奏:上東パンの学校(高知カリビアンハーツ)の皆さん、ナレーション:原田美枝子
制作:シグロ/2021
URL:https://palabra-i.co.jp/asuwoheguru/
場所:ポレポレ東中野

先日、長らく在庫切れしていた民族文化映像研究所(民映研)総覧の新編集版作成を手伝うために、DVDで民映研の過去の映画を何本か見ることになった。その中に、『薩摩の紙漉』(1990年)、『小川和紙』(1992年)と云う映画があった。どちらも和紙の制作過程を追ったドキュメンタリーで、原料の楮(こうぞ)の皮から繊維質を取り出して紙漉きをする工程が丁寧に描かれていた。この2つの映画の他にもう一つ和紙を扱った映画『越前和紙』(1990年)があって、和紙づくりを追うことがまるで民映研のひとつのライフワークとしてのテーマとなっているようにも見えてしまう。

その民映研の所長であった姫田忠義さんに(最後に?)師事していた今井友樹監督の最新作も、なんと、和紙づくりを追うドキュメンタリーなのにはびっくりした。これは、もしかして、民映研のイズムを継承して行くことの、今井友樹監督なりの宣言なんだろうか? この映画を観ながらそんなことを考えてしまった。

地域の人たちが集まって楮(こうぞ)を刈り、それを束ねて蒸して、柔らかくなった皮(黒皮)を剥いで乾かす。乾燥したその黒皮を川に漬けて、柔らかくなった黒皮を削り、傷を取り、美しい繊維だけを選別して行く。この一連の共同作業は、日本の里山で行われていたものづくりの原風景にも見えるもので、それを記録として残そうとした民映研の活動はとても大切なものだったとおもう。だから、誰かが継いでいくべきものだったのではないかと過去の映画を見ておもっていた矢先の『明日をへぐる』の公開だった。

ドキュメンタリー映画を作る環境がますます厳しさを増して行くなかで、制作費を集めることに何かしらの話題性が必要になるのだとしたら、民映研が行ってきた活動を引き継いで行くことを謳ってしまったほうが良いんじゃないかとおせっかいにも考えてみたりしてしまった。

まあ、とにかく、どんな方向の映画を撮ろうと、今井友樹監督の次回作も楽しみです。

→今井友樹→ナレーション:原田美枝子→シグロ/2021→ポレポレ東中野→★★★☆

監督:濱口竜介
出演:西島秀俊、三浦透子、霧島れいか、岡田将生、パク・ユリム、ジン・デヨン、ソニア・ユアン、ペリー・ディゾン、アン・フィテ、安部聡子
制作:『ドライブ・マイ・カー』製作委員会/2021
URL:https://dmc.bitters.co.jp
場所:109シネマズ菖蒲

即興演技のワークショップに参加した人たちを起用した濱口竜介監督の『ハッピーアワー』を観たときに、役者としての演技力があまり備わっていないにもかかわらず、映画として面白いものに仕上がっていることに不思議でならなかった。映画の中での役者の演技って何なんだろうなあ、とあらためて感じざるを得なかった。たとえば小津安二郎やロベール・ブレッソンの映画を見たときに感じたことと同じこと。映画の中での俳優の演技に我々がおもうような「上手い演技」なんてものはまったく必要なくて、ストーリーが面白くて、その語り口にリズムがあれば、過剰な演出は必要ないし、過剰な役者の演技も必要ないと云うことを教えてくれる映画だった。

濱口竜介監督の新作『ドライブ・マイ・カー』は、なんと、その濱口竜介監督の演出法を垣間見ることができる映画だった。

西島秀俊が演じている舞台俳優で演出家の家福悠介は広島の演劇祭に招かれる。そこでプロアマ、国籍を問わずに、オーディションで選ばれた人たちを使ってチェーホフの「ワーニャ伯父さん」を上演することになる。その最初の「本読み」の段階が、ああ、『ハッピーアワー』はこんなふうに作って行ったんだろうなあ、とおもえるシーンだった。

それぞれの役者に、ゆっくりと、感情を入れさせずに、まるで棒読みのようにセリフを読ませていく。そして一人のセリフが終わったら、机をポンと叩いて次の役者にパートを受け渡していく。それをリズム良く、何度も何度も繰り返えさせて、役者の体にセリフを染み込ませていく過程が描かれていた。これがつまり、濱口竜介監督が実践している演出方法なんじゃないかと想像してしまう。何度も普通に読ませることによって、過度な演技を省いて行って、自然なものに整えていく。

昔の映画監督とかも、相米慎二もそうだったのかなあ、まるでパワハラまがいに(いまの尺度で云えばパワハラ確定だ!)、役者に同じシーンのセリフを何度も云わせて、過剰な演技を取り除いて行く方法があった。それの、やさしいバージョンのような気がする。

斉藤由貴「頭もおかしくなりますよ」デビュー映画で浴びた相米監督の洗礼
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202108300000372.html

この『ドライブ・マイ・カー』での西島秀俊も、妻の霧島れいかに相手役のセリフだけをテープに吹き込んでもらって、車での移動時間にその録音テープを使ってセリフの練習をするシーンが出てくる。それはまるで、西島秀俊と霧島れいかが、『ドライブ・マイ・カー』の「本読み」を何度も行っているようにも錯覚してしまうシーンだった。

おそらくは、そのような方法を取って『ドライブ・マイ・カー』自体も作られて行ったんだとおもう。西島秀俊も、妻役の霧島れいかも、運転手役の三浦透子も、過剰な演技することなしに、フラットでありながらも、それでいて内面からにじみ出てくるような自然な演技をしていた。濱口竜介監督はそれを絶えず追求しているんだとおもう。

と考えると、岡田将生だけは、ちょっとだけ芝居がかっているように見えてしまった。まあ、役柄的にどうしようもなかったのかなあ。

反対に、広島演劇祭を主催している柚原を演じていた安部聡子は凄かった。彼女のような、何もかもを削ぎ落としてしまったかのような、能面のような演技が見られるのも濱口竜介監督作品の醍醐味だとおもう。

→濱口竜介→西島秀俊→『ドライブ・マイ・カー』製作委員会/2021→109シネマズ菖蒲→★★★★